ありがとう、さようなら。

今日で学生生活最後のアキモトです。
卒業を機に、私が思っていたことを書こうかなあと思いました。
ブログリレーの流れを切ってしまってごめんなさい。
どうせ飲み会とかはちょこちょこ行くことになるんですけど、
それでもひとつの節目として、一筆したためておこうかと思った次第であります。

追いコンでもらったメッセージ、どれも嬉しいものばかりでした。表紙のラーメンも。ありがとうございました。
作品のことを書いてくれている人もいて、ほんの少し、映研らしいことができてたのかなと嬉しく思っています。
でも、私自身とても後悔するところが多いです。まだまだ書き足りないなと思っています。
もっと撮りたい作品もいっぱいあったし、これは映像化出来ないだろうなって話がいくつも有りました。

悔しいです、とても。もっと撮りたいし、書きたい。

ずっと、もっとみんなに脚本を書いてほしい、と思ってました。
特定の人が書いていて、みんなが書いているわけじゃないかなって気がしてます。
撮りたい映像があるのに、オチがつかないから、と諦めてしまってる人も中にはいたな、と。
偉そうなこと言える程、いい作品を書いてきたわけではありませんが、私の思う所を少しお話させてもらいます。
私は、オチとか話の流れはどっかからそのまま真似しても良いと思ってます。
コンクールに作品を出すとか言うなら話は別ですが、こういうシーンを撮りたい!ということなら、
どこかのドラマからでも起承転結をいただいていいと思います。
「キリトリ」だってそのへんのドラマと変わらないですし、「ごんきくち」は「ごんぎつね」のコントです。
最近撮った「アキモ」だって「アメリ」の気持ち悪い人バージョンに過ぎません。
私の場合、100%オリジナルの作品を1本書くより、
どこかで見たようなオチでもいいから何本も書くことのほうが重要でした。
私の頭のなかの一部を、みんなと共有したくて書いていたからです。
考え方とか、思想とかそんな大きなものなんかじゃなくて、
私が見たいなあと思ったシーンを、みんなに見て欲しいってだけなんです。
だからこそ、脚本は必ず誰かに見せて意見をもらってました。
どうすればみんなと共有しやすいのか教えてもらうためです。
皆いいアドバイスをくれるし、面白いって言ってもらえればその日一日幸せになれます。
脚本って、そんな程度のものでいいんだと思ってます。
その程度のものでいいから、みんなの頭のなかをもっと見せて欲しかったです。

長々と書きましたが、そういう感じです。
気楽に考えて、自分の思うことや欲望を脚本にぶちまけてください。

最後になりますが、映研に入ってよかったなあと思いました。
素敵な場所でした。
ありがとうございました。
また、飲み会で会いましょう。
さようなら。

アキモト

【春新歓ブログリレー】看板作りました

こんばんは。毎度のように火曜日更新を続ける、月曜ブログ担当の番場です。部長です。

4月が近づいてきました。春の匂いが立ち込めております。全く陽気な季節でございます。今日は夜から、ビラ配り並びに新歓で大活躍必至の看板を製作していたわけです。それがこちら。

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芳賀と高峰作。カメラとマイクを模した張り紙をあしらっております。昨年から見た目で大きく変わったところはありませんが、マイク部分の銀紙で視認性を向上させ、剥がれやすい文字部分はテープで補強して耐久性を底上げ。着実に戦闘力を増しています。今年も多くの新入生の目を奪ってくれることでしょう。

ああ、それから補修をしてませんけどこちら。

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映画研究会が誇る大巨人、案山子くんです。昨年のビラ配りにてデビューし、圧倒的な体格と上下に揺れる独特の挙動で場を完全に制圧したトールマン。一転、オフシーズンには部室の隅にぞんざいに打ち捨てられ、昨季末に脱落した内臓(新聞紙)も未だ補充されずじまい。このまま最悪なコンディションでシーズンを迎えてしまうのか・・・?

私はもう一個の看板を作っていました。

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まだ全然できてません。映画のワンシーンと著名映画監督の写真を適度にぼかして並べてはっつけてみました。左から順に洋画、サイレント、邦画、監督です。なんの作品だかわかるかな?

youga

1

Shitaji

 

kantoku

 

これから左上に「北大」右下に「映研」と入れる予定です。そうすると真ん中空くんです。どうしてくれようか。明日考えよう。

番場巽己

 

 

【春新歓ブログリレー】妖怪

こんにちは、石川です。はじめてブログ書きます。

私は小学校の頃一番嫌いだった宿題は読書感想文で、交換日記には赤字で修正を入れられたことがあります。そのへんを踏まえてお読みください。

したい話はいろいろあるのですが、とりあえずわたしの大好きな妖怪のお話をしますね。

一言で妖怪と言いましても世の中には色々な妖怪がいます。最近はネコ型のやつが幅を利かせてますね。今回はそれらのたくさんの妖怪の中でも成り立ちややることがしょーもねーってやつを紹介します。

まずわたしが多分一番好きな妖怪、「どうもこうも」

なぜ「どうもこうも」という名前なのかといいますと、

昔「どうも」と「こうも」という2人の医者がいて、どちらも自分こそ日本一の名医と自慢していました。事実2人ともかなりの名医で様々な難しい手術をこなしていました。

あるとき、2人はどちらが日本一か勝負することになりました。まず2人が腕を切り落とし、それを繋いでみせました。切った跡はまったく残らず、勝負はつかきませんでした。続いて互いの首を切って繋ぐことになりました。2人は代わりばんこに互いの首を切り落とし、元通りに繋ぎ合わました。やはり一向に勝負はつきません。

遂に2人は、代わりばんこではなく同時に首を切り、同時に繋ぐという勝負に出て、合図と共に互いの首を切り落としました。しかし2人同時に首を失ったので、繋ぐ者は誰もおらず、どうもこうもできない内に2人とも死んでしまいました。

なんかかわいいですよね。お互いに首切って死んでしまうそのあほさ加減に愛しさを覚えます。この妖怪「どうもこうも」は由来こそあるのですが妖怪になったあとに何をするのかというのは文献に載せられていません。由来のインパクトでかすぎてそんなことどうでもよくなっちゃったんですかね。

次に、妖怪「足洗邸」

屋敷の中に「足を洗え」って言う声とともにめちゃくちゃでかい汚い足がつっこんできて、その足洗ってあげたら黙ってでていく。それだけの妖怪です。

それだけの妖怪です。パワハラのようななにかを感じますね。

「いなだ貸せ」

いなだっていうのは船をこぐ道具です。いなだを貸してほしいだけの妖怪です。大体の妖怪はこれで貸してくれなかった場合船沈めたりするんですがこれはなにもしません。しょぼんとして帰るだけらしいです。しかも貸した場合は魚がめっちゃ釣れます。コスパが良すぎますね。

つかれたんでここらへんで終わります。ありがとうございました。

【春新勧ブログリレー】恋愛映画特集第一回「本当の恋は切り花のように」『アニー・ホール』

今晩は。土曜日の夜が一番好きな西浦です。

恋愛映画特集の幕を切る作品はウディ・アレンの代表作『アニー・ホール』です。皆さんと同じく私もこの映画は大好きで何度も見ていますね。昨晩、高峰君と鑑賞し直したので準備もばっちりです。では、いきましょうか。


1997年、アメリカ 監督 ウディ・アレン 出演 ウディ・アレン ダイアン・キートン

アニーホール

 

「僕が屁理屈だって?世の中、馬鹿や間抜けばかりじゃないか。落ち着いてなんかいられるか。子供時代の環境のせいかな。差別されたんだ。しかたないだろ。かまわないでくれ。みんな、どーせ死んでしまうんだ。人生なんて悲惨で惨めなもんだよ。そんなもの、期待しないのが一番だ ・・・・・・わかった。謝るよ。妄想だった ・・・・・・ところで君はセクシーだね。素晴らしいよ。倒錯的ですらある。好奇心をくすぐるね ・・・・・・」

ウディ・アレンといえばいつもこんな調子だ。 ハゲで背は低いし、おまけにいつも早口で理屈をこねている。いかにも女性が嫌がる男の代表だ。実生活では身を滅ぼすほどに浮気な男であるようだが(詳しくはミア・ファローとの確執を調べてね)、アレンは「もてない男」が主人公の映画を沢山作ってきた。自分が本音のところではうじうじした人間だと認識しているのだろう。そして、40作を超えるウディ・アレン作品の代表作に当たるのが今回の『アニー・ホール』だ。

本作はニューヨークのコメディアン、アルヴィー・シンガー(ウディ・アレン)とジャズシンガーのアニー・ホール(ダイアン・キートン)の数年間の恋を描いたロマンスコメディだ。2人は『アニー・ホール』以前に私生活のパートナーであった。キートンの本名はダイアン・ホールであり、二人の恋を誠実に分析した映画だ。

映画はアルヴィーの長い独白から始まる。アニーとの別れを後悔し、何が悪かったのかと自分に問うアルヴィー。私たち観客は理解する。これから始まるのは、終わってしまった恋の物語だ。どこが駄目だったのか。彼と一緒に考えることになるのだ。

「第2次大戦中、ブルックリン育ちの明るい少年でした」

アルヴィーの回想が始まる。

「宇宙は膨張してすべては無に帰る。宿題なんて無駄だ。」

母親に病院へと連れられたひねくれ者のアルヴィー少年。

「宇宙とブルックリンが何の関係があるの!」アルヴィーママが叫ぶ。

「宇宙が破裂するまでは何十億年もあるさ。それまで楽しまないと損だ。」医者は大笑いをする。人生の短さや虚しさは、ウディ・アレンの根源的なテーマだ。

「ローラーコースターの下での暮らしのせいで神経質になったんだ」

振動の中で育った少年のいたずら心は学校でも発揮される。

「6才のときに女を知った」

好きな女の子に突然キスをして先生に叱られるアレン。

「今月2回目よ。この恥知らず!」

「健全なる性的好奇心だ。」

現在のアレン(教室の椅子に座っている)が回想の中で先生に反論する。とてもコミカルで『フェリーニのアマルコルド』のようである。

フェデリコ・フェリーニはアレンの敬愛する映画作家だ。『アニー・ホール』は終始、フェリーニの『81/2』のように連想つなぎで映像が流れていく。ここでは時間や空間は関係ないのだ。アルヴィーとアニー達が過去のアルヴィー少年を訪ねるというシーンもあったりする。

さらにはキャラクターが観客に向かって話しかけてくる。

 

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アルヴィーとアニーで映画を見に行くシーンでは、連れの女性にフェリーニの批評をするいかにもウディ・アレンが嫌いそうなインテリが登場する。

「フェリーニを見たが駄目だね。技巧的すぎる。」

いらいらしだすアルヴィ。

「発作がおこる。」

「聞かないで。」

アニーに諭されるアルヴィー。インテリのひけらかしは止まらない。

「マクルーハンも言ってることだが・・・・・・」

「こんなときあなただったらどうしますか?」

アルヴィーは突然、観客に尋ねだす。

「自由の国だ。好きに言わせろ。」

インテリまでもが話しかけてくる。苛立つアルヴィは何とすみの方からマクルーハン教授   本人!を引っ張り出して、インテリを屈服させてしまう。

「いつもこう上手くいけばね。」

またも、観客に共感を求めるアルヴィー。

見ている方は何が映画のリアリティなのかがわからなくなってくる。変な気分だ。アルヴィーに任せて、彼の回想に付き合うしかない。このシーンで本当はフェリーニを出したかったのだろう。断られてしまったのか。

アルヴィー=アレンは映画冒頭でマルクス兄弟のジョークに影響を受けたと話す。観客と映画の間にある、演劇で云うところの第4の壁を壊してしまう演出はグルーチョ・マルクスの十八番のギャグだ。アルヴィーはグルーチョの「私を入れたがるクラブには入りたくない」というジョークを引用する。

「このジョークは僕の女性関係のキーだ」

ユダヤ人は長らく社交クラブに入れて貰えなかった。入れるのは同じユダヤ系のクラブばかりなのだろう。アルヴィー=アレンは典型的なユダヤ系だ。

アルヴィーは自分を到底受け入れてくれない女性ばかり求めてしまうのだ。           「本当にあこがれるのは『白雪姫』の悪い女王だ」                           アニメ『白雪姫』の中でアルヴィーは女王を改心させたがる。

メガネで三頭身の小男はどう見ても悪の女王にはつりあっていない。

ベットでアニーにスキンシップするアルヴィー。アニーは本に夢中でかまってくれない。

「今日は駄目よ。明日は仕事があるから声を休ませないと。」

「最近ご無沙汰だ。昔は昼も夜もやってたのに。」

「倦怠期よ。誰にでもあるわ。あなた、結婚してたんだからわかるでしょ。」

アニーと出会う前、アルヴィーは2回結婚していた。

最初の妻は選挙応援事務所で出会ったアリスンだ。卒論の資料を集めているという彼女をアルヴィーはおちょくる。

「君はニューヨーク左翼ユダヤ系でインテリびいきの大学生のお嬢さんね。」

「ああ、ごめん。また馬鹿なこといっちゃた。」

アルヴィーは自分がインテリユダヤだと思われることをアニーに嘆いていたのに口では真逆のことを言ってしまう。同属嫌悪。しかし、アリスンは気にしたそぶりもない。

「いいの。皮肉を言われるのは好きだから。」

彼女もアルヴィーの気持ちがわかったのであろう。アリスンは美人でインテリで変人でもあった。アルヴィにはぴったりだ。

しかし、アルヴィーは彼女との生活に耐えられなくなってくる。

「私とのセックスを逃げてるのね。」

アリスンにずばり指摘されるアルヴィー。図星だった。

「彼女は僕にぴったりなのに。どうしてだ?」

「”私を会員にするクラブには入りたくない”の気持ちか」

巨大な自意識のために人生を楽しむことができないアルヴィー。

 

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逃げたロブスターを捕まえようとするアルヴィーとアニー。このシーンの二人は本当に楽しそうだ。アドリブでないかと思うほど自然な笑顔をしている。愛し合っていたものだからこそできる顔だろう。もっとも仲が良かったころの二人だ。

アルヴィーはアニーと結婚する気はない。同居も嫌がっていた。

何故か?映画が進むにつれ、アルヴィーの気持ちは痛々しいほどわかってくる。

二番目の妻はロビン。社交的でスノッブな典型的な裕福なユダヤ人だ。             出版者や文化人を呼んでのホーム・パーティで悪態をつくアルヴィーは、教授たちが議論をしている後ろでセックスにおよぼうとする。

「腹いせのセックスなんていやよ。」

「外には『ニューヨーカー』の編集者がいるのよ!」

またしても上手くいかない。アルヴィー=アレンが嫌いなものは何か。それは自分自身だ。  自分を入れてくれるクラブを嫌悪してしまう。つまりは『ニューヨーカ』のような知的でユーモアのあるところは嫌なのだ。

ウディ・アレンの一般的な印象はまさに『ニューヨーカー』なのだが。アレンをスノッブだと批判する人は多い。しかし、彼のスノッブさは自分を守るためである。

アニー・ホールは過去の妻たちとは違っていた。アニーは田舎育ちで純朴だ。いつも笑顔で陽気な彼女。格好も独特で男物のパンツやジャケットにネクタイを締めている。今見てもおしゃれだ。

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友達のロブ(トニー・ロバーツ)の紹介で出会った二人。自分とまったく異なるアニーにアルヴィーは惹かれていく。橋の言葉で愛の言葉をべらべらささやくアルヴィー。

「愛してるじゃ足りないね。アイ ラーブ。アイ ローブ。いやアイ ローフ。愛の強調だよ。」

「ばかね・・・・・・愛してるわ。」

このやりとりはこの映画の核心だ。愛情は言葉で尽くせるものではないのだ。アルヴィーは言葉や知性に勝るものがあることがわからない。このときから二人の関係は破綻するしかないことは見えていた。

アルヴィーはアニーを本当に愛していた。

「本当の恋愛」は相手に期待をかけて幻想を抱きまくるものではないか?互いに立ってる足場を掘り起こしていくのが恋愛だろう。いつかは二人で立てなくなって壊れるしかない。失われるからこそ美しく尊いのではないか。

恋愛は人生を凝縮したものとはいえないか。一人では成立しない上にあっけないものだ。

恋のない世は味気ない。けれどもいつまでも同じ味では飽きてしまう。

古代のギリシャ神話で神々と人間を隔てるのは死であった。人間は死すべきものであるから飽きずに生を楽しむことができる存在として描写される。恋愛も同じく生き生きとしたものだ。

二人の恋はどこでだめになってしまったのか。『アニー・ホール』は恋愛という生き物の観察記録でもある。

アルヴィーはアニーを教育し始める。フェリー二やベルイマンを見せるし、本を読ませる。大学や精神分析にも通わせる。素直な彼女はどんどんと成長していく。ついにはアルヴィーを追い越し、反発するようになる。二人の仲に亀裂が入ってくる。

自分で大学に通わせといて、もう通うなと口論するアルヴィー。変われない自分に焦り、苛立ち、嫉妬する。幻想の彼女と現実の彼女がずれだした。自分を愛し、憎むアルヴィーはアニーの期待に答えない。逆にアニーに自分の幻想を押し付ける。アニーはアルヴィーのなりたい自分の投影だ。陽気で無邪気な彼女はアルヴィーのあこがれだった。

「あなたはニューヨークの孤独な島よ。」

アニーはアルヴィーの独りよがりを咎める。

「精神的なオナニーをしてるだけよ!」

「オナニーをばかにしないでくれ。僕にとっては愛する人とのセックスなんだ。」

こんなに悲しい台詞があるだろうか。アルヴィーは愛する自分を捨てられないのだ。

いよいよ、アニーはアルヴィーのもとを離れてロサンジェルスへと旅立つ。

ロスは未来を生きるものの街だ。晴れ晴れとした、突き抜ける青空。

二人の恋という花はついに枯れた。映画はラスト、アルヴィーとアニーが再開するところで終わる。アニー=キートンの歌に合わせ二人の思い出が流れていく。

アニーへの思いや感謝、そして謝罪とともに映画は幕を閉じる。

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『アニー・ホール』は終わるしかなかった恋を描いた傑作です。失敗だからこそ私達の心に迫ってくるのです。アルヴィー=アレンは最後に人は卵を残したいから恋愛をするんだと言いました。卵が何であるかはもちろん人によって違うのでしょうが。

卵は孵り、また新たな卵を残します。恋愛は人間の壮大な叙事詩でしょうか。人が生まれては死んでいくように、恋もはじまり、そしておわる。『アニー・ホール』という卵の後に多くの恋愛映画が生まれました。次回以降ではそんな映画を紹介していこうと思います。

長くなりました。最後です。私はこの映画から恋愛における一つの目標を見出しました。   私は彼女のもとから「自分が必要でなくなる日」を夢見ていこうと思います。

まだまだアルヴィーほどに自意識が強いのでゴールは遥か遠くです。とほほ。

ではでは。第二回もよろしく。

テストがあるので更新は月曜日かな。ごめんなさいね。

西浦直人

【春新勧ブログリレー】アン・ハサウェイな猫

こんばんわ、左合です。
以前1年の小川が書いた愛犬の記事がとても面白かったので私も便乗して愛猫のこと書きます。

去年8月に前猫のタロが尿毒症(猫は腎臓が弱いのです。特に10歳を過ぎたら半年に1回は健康診断したほうがいいそうです!)で亡くなり、もう実家(福井)に帰る意味がないとぼやいておりましたところ、なんと12月にタロそっくりの猫を父が拾ってきました。ちょうど家の前の公園で雪の中捨てられており、母曰く、栄養失調と凍傷でガリガリのボロぞうきんみたいだったそうです。そのくせ顔はまん丸だったので「まる」と名付けました。当初はとにかく食欲が半端ではなく、作り置きしていたみそ汁の鍋に手を入れ飲むほどでした。(※さすがにそのみそ汁は捨てました…。)そんな野良猫っぽさ満開だったまるも、今ではすっかり肥えて(2㎏→4㎏)家猫らしくなり我が家の猫様になりました。顔だけでなく目もまん丸いのでアン・ハサウェイ似です。前猫のタロは逆三角形型のりりしい顔つきで伊勢谷友介似でした。ともあれ、しばらくは実家も安泰です。さっそく来週まるに会いに1日くらい帰省します!
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映研は猫派もたくさんいます。猫好きな新入生集まれ〜!

【春新歓ブログリレー】『プレデター』

こんばんは、ブログリレー木曜日担当の新川です。

去年のブログリレー企画ではみんなが好き勝手に書いていたので、先週は好き勝手に書いたのですが、今回はなぜか皆が皆映研の紹介をちゃんとやっていたため僕の記事が完全に浮いてしまい、「貴様ら俺を嵌めやがったな!!!」などと絶叫しながら握りしめた拳をキーボードにたたきつけていました。なので今回はおとなしく映画の話をします。

 

さて、というわけで本題に入りますが、今回は映画『プレデター』の話をしたいと思います。

プレデター(原題:Predator)

1987年アメリカ

監督 ジョン・マクティアナン

脚本 ジム・トーマス、ジョン・トーマス

音楽 アラン・シルヴェストリ

撮影 ドナルド・マカルパイン

主演 アーノルド・シュワルツェネッガー

あらすじ 南米バル・ベルデで行方を絶った重要人物奪還のためにジャングルに潜入する特殊コマンド部隊。だがゲリラを掃討した彼らを待ち受けていたのは宇宙から飛来した異星人プレデターだった。体を透明化させて周囲の風景に溶け込み、どこからともなく牙を向くプレデターに隊員たちは次々に倒されていく……

『ダイ・ハード』のジョン・マクティアナン監督、『ターミネーター』『コマンドー』のアーノルド・シュワルツェネッガー主演のSFアクション映画。余談ですが、架空の国家である”バル・ベルデ”はダイ・ハード2やコマンドーでも名前が出ています。個人的に大好きな映画なのですが、ある日一緒に観た部員に「最高だったろ!?」と興奮気味に聞いたところ渋い顔をされたので、どこが最高なのかを書いていこうと思います。ネタバレを含みますが、まあそういうのを気にする映画ではないので大丈夫です。

『プレデター2』、『プレデターズ』といった続編、『エイリアンVSプレデター』シリーズといった派生作品があり、名前を知っている人は多いと思いますが、意外と実際に観たことのある人は少ない作品の一つだと思います。長く続いたシリーズの最初の作品というのは、たいてい独特の魅力があるものなので積極的に観ましょう。

さて、肝心の『プレデター』の魅力ですが、まず一つに筋肉映画であるということです。主演の時点で予想がついていると思いますが、この作品は基本的には「シュワちゃんのアクション映画」です。まず冒頭、現在は軍を退役しCIA職員である戦友のディロン(カール・ウェザーズ)と再会した主人公ダッチ(シュワルツェネッガー)は、握手と同時に腕相撲を始めます。執拗にはさまれる隆起した上腕二頭筋のカットに、繰り出される小粋なセリフは強いアメリカ人そのものです。特に吹き替えの小粋な台詞回しや下品なジョークは、部隊の隊員たちのキャラを立たせるだけでなく、プレデターがそれを録音して使うにことよって大きな要素の一つになっています。中盤、ゲリラを制圧する際も、わざわざトラックを持ち上げたり、コマンドーめいた投擲で敵を倒したりと、筋肉ゆえの強さを披露します。また、ずっと熱帯のジャングルが舞台であるにもかかわらず、ダッチは映画が進むにつれてなぜか少しずつ服が脱げていき、終盤は(泥が塗られてはいるが)常に上半身裸です。プレデターに襲われて装備を失う前から、気が付くとどんどん上を脱いでいきます。

次に、プレデターというとてもユニークなキャラクターが魅力の一つとして挙げられます。エイリアンのような獰猛な未知の怪物でも、圧倒的技術力によってUFOのような兵器を操る宇宙人でもなく、人類よりはるかに高い技術力を持ちながらも、狩りを楽しみ、屈強な体格で白兵戦を好む野蛮な文化という斬新な宇宙人像は非常に面白いです。弱いものは狩りの対象から外したり、強い戦士に対しては刃物による近接格闘で敬意を示したり、ラストの録音したセリフのおうむ返しや不敵な笑いと自爆など、独特の価値観も魅力の一つです。造形としては、西洋甲冑のような仮面、アフリカの原住部族のようなアクセサリー、日本の武者を彷彿とさせる頭部など、世界中の”戦士”のイメージをうまく取り入れた部分が素敵です。

そして個人的に好きな部分に、随所で見られる”立場の逆転”が生み出す絶望感やカタルシスといった構造があります。序盤から中盤にかけて、ダッチ率いる特殊部隊は常に確かな実力とそれに伴う自信・余裕がみられ、ゲリラの基地をかなり一方的に制圧する、まさに精鋭部隊であり、”狩る側”でした。ところが、正体不明の姿が見えない謎の生物に、一人また一人と殺され始めると彼らは取り乱し、闇雲に打ちまくるような”狩られる側”の獲物になってしまうのです。前半に強さを強調したからこそ、強者という立場を追われたときに恐怖と絶望が増すのです。これは、基本的に絶対的強者として描かれるシュワルツェネッガーを起用していることによっても起こっています。前述したように、序盤はシュワちゃんのアクション映画なのですが、だからこそ、強者であるシュワルツェネッガーが、圧倒的力に太刀打ちできずに追い詰められたり、鍛え上げられた肉体が最大の個性の人間が片手で持ち上げられることによって、プレデターの強さと絶望感が増すのです。また逆に、姿が見えないプレデターに対して、恐怖で闇雲に撃ちまくるしかなかった場面があったことによって、泥を全身に塗ったダッチを見ることができないプレデターが闇雲にプラズマキャノンを撃ちまくるシーンでカタルシスが生まれるのです。

というわけで、とりあえずまだ観ていない人は『プレデター』を観ましょう。きっと楽しめるはずです。

【春新歓ブログリレー】北大映研に入るべき3つの理由

こんにちは、平です。記事の更新が二日遅れになりました。すみません。

もう既に合格発表も終わりましたね。お疲れ様でした。
というわけで、4月から大学生活を控え、そろそろサークルを探したり、家の引っ越しを終えたりして、なんとなしに暇をしている人も多いと思います。
大学生活で最もも大事なことのひとつは、そうサークルです。
何のサークルに入るか次第で、大学の四年間が決まるといっても過言ではありません。
大学には一応、クラスなるものがありますが、それもやっぱり高校と比べると形式的です。
つまり、サークルこそが真のクラスというべきものなわけです。

そして私は、みなさんにはぜひとも「北大映画研究会」に入っていただきたい!
今回は、実際に北大映画研究会をエンジョイする部員に、その魅力を聞いてみました。

1.視野が広がる
「交友関係が広がったことがよかったですね。本当に色々な人がいますよ」(20才・男)
例会終わりにみんなでご飯を食べに行きます。食事の会話は食べ物を美味しくする!
2.映画を見に行く仲間をゲット
「部員同士で映画を一緒に見に行くこともあります。見終わった後は一緒にその映画についてトーク!」(20才・男)
毎月一日の映画の日にみんなで映画を見に行きます。見終わったあとはその映画についてトーク、時には意見の衝突も……でもそれは愛があってこそ!
3.映画を撮る仲間をゲット
「映画を撮る、というのが最大の特徴ですね。これはなかなか学生のうちでないとできないことではないですか」(20才・男)
映画撮影を通して、先輩から教わることは多いはず!

おわりに

簡単にですが、これまでの説明を通して
北大映画研究会の魅力がおわかりいただけましたか?
どのサークルも4~5月はサークル勧誘期間です。
北大映研に、ふらっと遊びに来てはいかが?
まだ見ぬ魅力があるのかも。

平 竣輔

【春新歓ブログリレー】『ダンサー・イン・ザ・ダーク』の話

水曜担当の高島です。
一日ずれたから木曜日に書くんだろうなーと思っていたら、水曜日の23時頃に番場さんから「今日書いてね(はーと)」と連絡が来たので眠い目をこすりながら書いてます。
高島は早寝なのです。ねむいよ。

この間『ダンサー・イン・ザ・ダーク』を借りて見ました。
歌手であるビョークが主人公セルマを演じています。
あらすじは、遺伝性の目の病気を持つセルマが、同じ病気の息子のため、手術費を苦労して稼ぎつつも、優しい隣人たちに囲まれて楽しく過ごしていたが……というところですね。
ウィキによるとカメラワークが革新的らしいんですが、いかんせん知識がないので、その辺は他の先輩方に語っていただきましょう。すみません。
私は気分が暗くなる映画が好きでして、正直この映画にもそれを求めて借りてきました。趣味悪いですね。結論から言うと、気分は暗くなりました。目標達成。
しかし私の心を一番に捕らえたのは、ビョークの目の輝きでした。
主人公セルマはミュージカルを愛しているので、働いている工場の音、列車の車輪の音などでミュージカルを空想するシーンがいくつも出てきます。
空想のシーンに入った時の目の色の変わり方、すごいです。目があまり見えない主人公なので、普段は虚ろな目で演じています。でも空想の中ではセルマは自由。思い切りミュージカルを楽しむセルマを演じるビョークの目はこぼれ落ちるくらい光にあふれていました。
演技力、というよりも、役であるセルマのミュージカルに対する愛と同じくらい、ビョーク自身に音楽への愛があるんだなあと思いました。好きってすごい。
私は無趣味な人間なので、目の色が変わるくらい愛せる対象に出会いたいです。

よし、書いた。もう木曜日だ。
高島は寝ます。おやすみなさい。

いつの日か

どうもブログリレー日曜担当の小海です。

1日遅れになってしまい申し訳無いです…

今日は矢沢永吉「いつの日か」を聴きながらブログを書いてます。これまた良い曲です、オススメ(誰に勧めてるのか…)。

さて、春といえば新入生のみなさんがやってくる季節ですね!

毎年いろんな一年生が入ってくる、春といえば「歓迎」のイメージが強いです

ただ一方で卒業や新しい進路、職場へと人生の駒を進める、そんな「別れ」の季節でもあったりします。

映研も最近は追いコン(一年生の人には馴染みの薄い言葉かもしれませんが「追い出しコンパ」の略です)が立て続いており、また一人また一人と先輩がいなくなってしまう日々が続いてます。寂しいものです。

僕は寮に入っているのですが、うちの寮でもやはりこの時期は一人また一人と寮を巣立っていきます。

今年巣立って行かれる人の中でも大学4年生というのは僕にとって一つ上の先輩にあたります。

よく寮では、「一つ違う先輩後輩関係が一番親密になる」と言われますが、映研の場合もやはりそうだったような気がします。

僕が一年生、そう「新入生」として北大に入った時、一番お世話になったのが一つ上の先輩方でした。

年が近いというのもあり、また初めての後輩というのもあるのでしょうか、思い出もたくさんあります。

一年生の皆さんはまだ北大にこれから入るので大学生活にいろいろな憧れ、イメージを抱くかもしれません。

けれども、そのほとんどは裏切られるというか(決して脅しではなく笑)、イメージ通りにいかないのがほとんどです(泣)

そういう自分の中の葛藤に苦しむとき、話を聞いてくれる人がひとりでもいることはけっこう大きな支えだったりします

時に先輩のアホな姿を見て、「こんなんでもいいのか!」と返って励まされることもありますが、それもまた良い事です(笑)

映画製作は一人ではできない

それと同じで、人は一人で生きられないんだなって僕は経験で悟りました(なんか金八先生みたいな話ですね笑)。

映研で撮ってきた映画ひとつひとつに思い出があります。

たぶん観てる人にはそんなとこまでは見えてないでしょうが…

ハリウッドだろうがつまらない邦画だろうが、自分が見ているスクリーンの奥に自分の知らない色んなドラマがあるんだろうなぁ

映研に入ってから映画を観るたびそんなことを考えちゃいます

楽しい生き方ですよ、そして映画は奥が深い。

一年生も、大学に入っていい出会いをしてくださいね

そしてもし良かったら映研に入ってくださいね

以上レポっす

3年目 小海祈

[春新勧ブログリレー]「苦いもんだね。恋愛映画特集~予告編~」 

どーも、春新勧ブログリレー土曜日担当の西浦直人です。

体調不良で一日遅れてしまいました。やはりこの時期は育った九州の季節の感覚が北海道での生活とずれてきて体も頭も不調です。春はまだでしょうか。もう冬物とおさらばしたいです。

来週には新1年生が続々北大にやってくるんですね。私のときは入学式が吹雪でした。また後輩が増えると思うと楽しみです。いよいよ私は4年で最高学年です。えっへん。

んっで、ですねタイトルにある通り、私の記事では全5~10回の連載形式で「恋愛映画」について書いていこうと思います。読者は主に男性を想定しています。女性の人は私よりも恋愛についてご存知でしょうから「男ってこう考えるのね」と笑ってあげてください。

以前書いた「終電車」の記事と同じように詳しいストーリーも書いていくのでその映画を見ていない人も楽しめるかと思います。前半ではアメリカ映画の一つの潮流である「奥手な男のための非モテ恋愛映画」を扱い、後半では特に私の好きな映画を語るつもりです。以上が企画説明です。

さてさて、先日、2014映研ランキングを発表しました。票の集計をしていて映研では恋愛映画の人気がないということに気がつきました。話題に上がるのはサド的なエロチシズムを題材にした映画ばかりで「恋愛映画」好きの私としては不満が残りました。甘いものや苦いものどっちも必要なのが人間の生ではないでしょうか。私たちは遺伝子の乗り物なだけではないはずです!恋愛映画を軽んじる気持ちは恋愛への期待をスポイルしてしまいます。

そこで私の好きな、また学ぶところの多かった映画を取り上げてこの風潮を打破したいと思い、この企画を始めました。あんまり春新勧とは関係ないですね。

困ったことに多くの男たちと同じく私も恋愛がちっともわからないのですが、理解できるまで何度も恋をするわけにもいきません。結婚してから妻以外の人を好きになってしまうのはいいことでも何でもない不幸です。実生活での恋愛はなかなか強烈で楽しいことも嫌なこともあったし、これからもあるでしょう(今彼女を探しているぞっ)。

数に限りがあるならどうするか。映画を見ればよいと思います。「恋愛映画」は過去の経験の投影先であるだけでなく、人生の予行演習だったり、別の人生を想像するきっかけとなります。そういったところが映画の面白さです。この楽しさを恋愛映画が苦手な人にも伝えていきたいと思います。私自身も「恋愛」というものをもう一度考える機会にしたいです。

では次の土曜日から第一回始めていきますよ。励みになるのでコメントよろしくお願いします。

初回はやはりウディ・アレンの「アニー・ホール」です。映画見てない人は予習しておくとより楽しめるかと思います。DVDだったら私持ってますよ。では、乞うご期待!

西浦直人