今晩は。土曜日の夜が一番好きな西浦です。
恋愛映画特集の幕を切る作品はウディ・アレンの代表作『アニー・ホール』です。皆さんと同じく私もこの映画は大好きで何度も見ていますね。昨晩、高峰君と鑑賞し直したので準備もばっちりです。では、いきましょうか。
1997年、アメリカ 監督 ウディ・アレン 出演 ウディ・アレン ダイアン・キートン
「僕が屁理屈だって?世の中、馬鹿や間抜けばかりじゃないか。落ち着いてなんかいられるか。子供時代の環境のせいかな。差別されたんだ。しかたないだろ。かまわないでくれ。みんな、どーせ死んでしまうんだ。人生なんて悲惨で惨めなもんだよ。そんなもの、期待しないのが一番だ ・・・・・・わかった。謝るよ。妄想だった ・・・・・・ところで君はセクシーだね。素晴らしいよ。倒錯的ですらある。好奇心をくすぐるね ・・・・・・」
ウディ・アレンといえばいつもこんな調子だ。 ハゲで背は低いし、おまけにいつも早口で理屈をこねている。いかにも女性が嫌がる男の代表だ。実生活では身を滅ぼすほどに浮気な男であるようだが(詳しくはミア・ファローとの確執を調べてね)、アレンは「もてない男」が主人公の映画を沢山作ってきた。自分が本音のところではうじうじした人間だと認識しているのだろう。そして、40作を超えるウディ・アレン作品の代表作に当たるのが今回の『アニー・ホール』だ。
本作はニューヨークのコメディアン、アルヴィー・シンガー(ウディ・アレン)とジャズシンガーのアニー・ホール(ダイアン・キートン)の数年間の恋を描いたロマンスコメディだ。2人は『アニー・ホール』以前に私生活のパートナーであった。キートンの本名はダイアン・ホールであり、二人の恋を誠実に分析した映画だ。
映画はアルヴィーの長い独白から始まる。アニーとの別れを後悔し、何が悪かったのかと自分に問うアルヴィー。私たち観客は理解する。これから始まるのは、終わってしまった恋の物語だ。どこが駄目だったのか。彼と一緒に考えることになるのだ。
「第2次大戦中、ブルックリン育ちの明るい少年でした」
アルヴィーの回想が始まる。
「宇宙は膨張してすべては無に帰る。宿題なんて無駄だ。」
母親に病院へと連れられたひねくれ者のアルヴィー少年。
「宇宙とブルックリンが何の関係があるの!」アルヴィーママが叫ぶ。
「宇宙が破裂するまでは何十億年もあるさ。それまで楽しまないと損だ。」医者は大笑いをする。人生の短さや虚しさは、ウディ・アレンの根源的なテーマだ。
「ローラーコースターの下での暮らしのせいで神経質になったんだ」
振動の中で育った少年のいたずら心は学校でも発揮される。
「6才のときに女を知った」
好きな女の子に突然キスをして先生に叱られるアレン。
「今月2回目よ。この恥知らず!」
「健全なる性的好奇心だ。」
現在のアレン(教室の椅子に座っている)が回想の中で先生に反論する。とてもコミカルで『フェリーニのアマルコルド』のようである。
フェデリコ・フェリーニはアレンの敬愛する映画作家だ。『アニー・ホール』は終始、フェリーニの『81/2』のように連想つなぎで映像が流れていく。ここでは時間や空間は関係ないのだ。アルヴィーとアニー達が過去のアルヴィー少年を訪ねるというシーンもあったりする。
さらにはキャラクターが観客に向かって話しかけてくる。
アルヴィーとアニーで映画を見に行くシーンでは、連れの女性にフェリーニの批評をするいかにもウディ・アレンが嫌いそうなインテリが登場する。
「フェリーニを見たが駄目だね。技巧的すぎる。」
いらいらしだすアルヴィ。
「発作がおこる。」
「聞かないで。」
アニーに諭されるアルヴィー。インテリのひけらかしは止まらない。
「マクルーハンも言ってることだが・・・・・・」
「こんなときあなただったらどうしますか?」
アルヴィーは突然、観客に尋ねだす。
「自由の国だ。好きに言わせろ。」
インテリまでもが話しかけてくる。苛立つアルヴィは何とすみの方からマクルーハン教授 本人!を引っ張り出して、インテリを屈服させてしまう。
「いつもこう上手くいけばね。」
またも、観客に共感を求めるアルヴィー。
見ている方は何が映画のリアリティなのかがわからなくなってくる。変な気分だ。アルヴィーに任せて、彼の回想に付き合うしかない。このシーンで本当はフェリーニを出したかったのだろう。断られてしまったのか。
アルヴィー=アレンは映画冒頭でマルクス兄弟のジョークに影響を受けたと話す。観客と映画の間にある、演劇で云うところの第4の壁を壊してしまう演出はグルーチョ・マルクスの十八番のギャグだ。アルヴィーはグルーチョの「私を入れたがるクラブには入りたくない」というジョークを引用する。
「このジョークは僕の女性関係のキーだ」
ユダヤ人は長らく社交クラブに入れて貰えなかった。入れるのは同じユダヤ系のクラブばかりなのだろう。アルヴィー=アレンは典型的なユダヤ系だ。
アルヴィーは自分を到底受け入れてくれない女性ばかり求めてしまうのだ。 「本当にあこがれるのは『白雪姫』の悪い女王だ」 アニメ『白雪姫』の中でアルヴィーは女王を改心させたがる。
メガネで三頭身の小男はどう見ても悪の女王にはつりあっていない。
ベットでアニーにスキンシップするアルヴィー。アニーは本に夢中でかまってくれない。
「今日は駄目よ。明日は仕事があるから声を休ませないと。」
「最近ご無沙汰だ。昔は昼も夜もやってたのに。」
「倦怠期よ。誰にでもあるわ。あなた、結婚してたんだからわかるでしょ。」
アニーと出会う前、アルヴィーは2回結婚していた。
最初の妻は選挙応援事務所で出会ったアリスンだ。卒論の資料を集めているという彼女をアルヴィーはおちょくる。
「君はニューヨーク左翼ユダヤ系でインテリびいきの大学生のお嬢さんね。」
「ああ、ごめん。また馬鹿なこといっちゃた。」
アルヴィーは自分がインテリユダヤだと思われることをアニーに嘆いていたのに口では真逆のことを言ってしまう。同属嫌悪。しかし、アリスンは気にしたそぶりもない。
「いいの。皮肉を言われるのは好きだから。」
彼女もアルヴィーの気持ちがわかったのであろう。アリスンは美人でインテリで変人でもあった。アルヴィにはぴったりだ。
しかし、アルヴィーは彼女との生活に耐えられなくなってくる。
「私とのセックスを逃げてるのね。」
アリスンにずばり指摘されるアルヴィー。図星だった。
「彼女は僕にぴったりなのに。どうしてだ?」
「”私を会員にするクラブには入りたくない”の気持ちか」
巨大な自意識のために人生を楽しむことができないアルヴィー。
逃げたロブスターを捕まえようとするアルヴィーとアニー。このシーンの二人は本当に楽しそうだ。アドリブでないかと思うほど自然な笑顔をしている。愛し合っていたものだからこそできる顔だろう。もっとも仲が良かったころの二人だ。
アルヴィーはアニーと結婚する気はない。同居も嫌がっていた。
何故か?映画が進むにつれ、アルヴィーの気持ちは痛々しいほどわかってくる。
二番目の妻はロビン。社交的でスノッブな典型的な裕福なユダヤ人だ。 出版者や文化人を呼んでのホーム・パーティで悪態をつくアルヴィーは、教授たちが議論をしている後ろでセックスにおよぼうとする。
「腹いせのセックスなんていやよ。」
「外には『ニューヨーカー』の編集者がいるのよ!」
またしても上手くいかない。アルヴィー=アレンが嫌いなものは何か。それは自分自身だ。 自分を入れてくれるクラブを嫌悪してしまう。つまりは『ニューヨーカ』のような知的でユーモアのあるところは嫌なのだ。
ウディ・アレンの一般的な印象はまさに『ニューヨーカー』なのだが。アレンをスノッブだと批判する人は多い。しかし、彼のスノッブさは自分を守るためである。
アニー・ホールは過去の妻たちとは違っていた。アニーは田舎育ちで純朴だ。いつも笑顔で陽気な彼女。格好も独特で男物のパンツやジャケットにネクタイを締めている。今見てもおしゃれだ。
友達のロブ(トニー・ロバーツ)の紹介で出会った二人。自分とまったく異なるアニーにアルヴィーは惹かれていく。橋の言葉で愛の言葉をべらべらささやくアルヴィー。
「愛してるじゃ足りないね。アイ ラーブ。アイ ローブ。いやアイ ローフ。愛の強調だよ。」
「ばかね・・・・・・愛してるわ。」
このやりとりはこの映画の核心だ。愛情は言葉で尽くせるものではないのだ。アルヴィーは言葉や知性に勝るものがあることがわからない。このときから二人の関係は破綻するしかないことは見えていた。
アルヴィーはアニーを本当に愛していた。
「本当の恋愛」は相手に期待をかけて幻想を抱きまくるものではないか?互いに立ってる足場を掘り起こしていくのが恋愛だろう。いつかは二人で立てなくなって壊れるしかない。失われるからこそ美しく尊いのではないか。
恋愛は人生を凝縮したものとはいえないか。一人では成立しない上にあっけないものだ。
恋のない世は味気ない。けれどもいつまでも同じ味では飽きてしまう。
古代のギリシャ神話で神々と人間を隔てるのは死であった。人間は死すべきものであるから飽きずに生を楽しむことができる存在として描写される。恋愛も同じく生き生きとしたものだ。
二人の恋はどこでだめになってしまったのか。『アニー・ホール』は恋愛という生き物の観察記録でもある。
アルヴィーはアニーを教育し始める。フェリー二やベルイマンを見せるし、本を読ませる。大学や精神分析にも通わせる。素直な彼女はどんどんと成長していく。ついにはアルヴィーを追い越し、反発するようになる。二人の仲に亀裂が入ってくる。
自分で大学に通わせといて、もう通うなと口論するアルヴィー。変われない自分に焦り、苛立ち、嫉妬する。幻想の彼女と現実の彼女がずれだした。自分を愛し、憎むアルヴィーはアニーの期待に答えない。逆にアニーに自分の幻想を押し付ける。アニーはアルヴィーのなりたい自分の投影だ。陽気で無邪気な彼女はアルヴィーのあこがれだった。
「あなたはニューヨークの孤独な島よ。」
アニーはアルヴィーの独りよがりを咎める。
「精神的なオナニーをしてるだけよ!」
「オナニーをばかにしないでくれ。僕にとっては愛する人とのセックスなんだ。」
こんなに悲しい台詞があるだろうか。アルヴィーは愛する自分を捨てられないのだ。
いよいよ、アニーはアルヴィーのもとを離れてロサンジェルスへと旅立つ。
ロスは未来を生きるものの街だ。晴れ晴れとした、突き抜ける青空。
二人の恋という花はついに枯れた。映画はラスト、アルヴィーとアニーが再開するところで終わる。アニー=キートンの歌に合わせ二人の思い出が流れていく。
アニーへの思いや感謝、そして謝罪とともに映画は幕を閉じる。
『アニー・ホール』は終わるしかなかった恋を描いた傑作です。失敗だからこそ私達の心に迫ってくるのです。アルヴィー=アレンは最後に人は卵を残したいから恋愛をするんだと言いました。卵が何であるかはもちろん人によって違うのでしょうが。
卵は孵り、また新たな卵を残します。恋愛は人間の壮大な叙事詩でしょうか。人が生まれては死んでいくように、恋もはじまり、そしておわる。『アニー・ホール』という卵の後に多くの恋愛映画が生まれました。次回以降ではそんな映画を紹介していこうと思います。
長くなりました。最後です。私はこの映画から恋愛における一つの目標を見出しました。 私は彼女のもとから「自分が必要でなくなる日」を夢見ていこうと思います。
まだまだアルヴィーほどに自意識が強いのでゴールは遥か遠くです。とほほ。
ではでは。第二回もよろしく。
テストがあるので更新は月曜日かな。ごめんなさいね。
西浦直人