2025年度 新歓ブログリレー #13

5月に入りました。札幌は桜が咲いていますが寒暖差が激しく、まだまだコートが手放せないままです。今回は映研2年の古谷が、GWに観ていただきたい一作をご紹介します。

母なる証明

「母なる証明」

ポンジュノ監督作品。親子関係とは何か、考えてしまう作品です。

漢方・薬草店を営む女性は、軽い知的障害を負っているであろう息子(青年)トジュンと貧しい2人暮らし。息子は判断力や記憶力が弱く、兄貴分の半グレみたいな男ジンテとつるんで遊んでは、物を壊すなどして弁償金が必要になるなど、母親に迷惑をかけている。ところがある日、息子が高校生女子を殺害したとして逮捕される。母親は息子の無罪を証明すべく自力で捜査を開始する…。

冒頭から胡散臭い展開です。そもそも最初のシーンでは、母親(この段階ではこれが母親であることすら不明なままである)がすすきのような植物が生える草原で踊っているというもの。そして透過でタイトルバック。一体何を描写しているのかわからないからこそ違和感と非日常感を持ちます。ところが次のシーンからは日常的な韓国の地方の光景が映し出される展開。圧倒的な日常と平穏。

とはいえその「平穏」すら、路上でジンテとつるむトジュンを眺めつつ仕事に励むので、うっかり自分の指を刃物で怪我する不穏さを帯びています。思えばこの点から少し変だったのです。発達障害があるとはいえ、一人で喋り動きコミュニケーションもできる恐らく成人かそこらの息子を見続けて仕事をするでしょうか?過保護とも違う母親の監視。文字通り「何かあれば飛んでくる」。そして息子が逮捕されると目覚ましい働きを見せるのです。見ている間は母親の愛が暴走している、という印象なのですが、最後には「暴走している愛」こそ母親が追及していたものだと気付かされます。

 

以下ネタバレを含みます、ご注意ください。

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というのも、母親は最終的に「トジュンが故意的ではないとはいえ殺人者だった」という事実を唯一知る男を衝動的に殺めるのでした。なぜここまでして息子を守る(というか自分の手元に置いておこうとする)のか、疑問に思えてきます。

トジュンはジンテに罪を転嫁されてベンツ破壊の賠償責任を負いますが、それを実質的に払うのが母親であるように、トジュンは常に母親の足を引っ張っているのです。いくら母親でも愛想をつかさずに居られるのか?

一つだけこれを合理的に解釈するとするなら、母親はトジュンに原罪を負っているから面倒を見続けているというものでしょう。作中では、殴られたトジュンが記憶を一部取り返し、面会しに来た母親に「自分に農薬を飲ませて殺そうとしただろう」と突き放すシーンがあります。貧困だったとはいえ息子を殺めようとした罪。仮にその後に追って母親も死ぬつもりであったとしても、子供に与える「加害された」意識は抜けない。

「母なる証明」では、「子に対する愛から生まれた酷い行い」が無批判に賛美されるべき行動ではないということを如実に描き出しています。

「我が子を守るためならば何をしても“母の愛”」という思考は邦画「八日目の蝉」にも見られますが(注:「八日目の蝉」では実子ではない)、この思考は、「八日目の蝉」で肯定され、「母なる証明」で否定されています。

「健全な肉体・精神・環境的な子の成長」と「母の愛を受けた成長」はイコールでは無く、尊重すべきは前者でしょう。「八日目の蝉」では前者が“子供本人にとっては”後者と同じだったので感情移入の余地がありますが、「母なる証明」は後者が前者を侵害していることで「母の愛」が違和感として立ち上がってくるのでしょう。
それにしても似た題材であっても、こうも印象が違うというのは、創作の面白い所です。

さて、あと少し遅かったら/早かったら、と見ていて思う作品は多々ありますが、今作も同様。母親が真実を知る男を殺した数日後に、警察は女子高生の同級生?を真犯人として逮捕します。あと少し遅ければ母親は人を殺さずに済んだのに…

ところがこの作品の凄いのは、仮にそのエンドだったとして、全く救いにはならないのことです。トジュンは母親を忌避していくでしょうし、母親はトジュンが人を殺したという事実と自分がトジュンを殺しかけた過去を天秤にかけつつ、これからも息子を自分の世界の中に置いておこうとするでしょう。そしていつかトジュンが真犯人として再逮捕される可能性に怯えつつ暮らす。

それよりは実際の映画の展開の方が良い。トジュンは自立を選ぶだろうと予期されるからです(とはいえ救われるのはトジュンだけ)。母親は最後のシーンで、トジュンからプレゼントされたバスツアーに出発し、車内で「嫌なことを忘れることのできるツボ」に鍼を刺します。彼女が仮に忘れることに成功しても、それはハッピーエンドとは程遠いでしょう。
余談ですが、このトジュンによる(恐らく初めてであろう)母親へのプレゼントは、母親の庇護=監視からの脱却のメタファーであるように思います。ハリーポッターにおいてモノをあげることが屋敷しもべ妖精の解放を意味するように、プレゼントは守られる側が守る側に渡すモノではないからです。
さらに2つ、残酷さが際立つストーリーがあります。1つは殺害された女子高生自身について。彼女は恐らく親がおらず、酒乱の祖母を介護するヤングケアラーでした。そこで金銭的担保として多くの男性と性的関係を持っていました。その際に男性を携帯で盗撮してある種の保険にしていたのです。本作中ではこの携帯データに弱みを握られた男性が犯人だというブラフもあるのですが、とにかくこの女子高生の取り巻く環境が、現代韓国の諸問題をあぶりだしているような気がします。そして日本の問題でもあります。ある種の産業として一応の確立を見ている性風俗産業ではなく、アンダーグラウンドな非正規の性取引が少女たちの活動のプラットフォームとなるなら、作中の少女の様に事件に巻き込まれても、事件が闇に葬られる危険性を大いに孕んでいるのでしょう。

もう1つは殺害された女子高生殺害の真犯人として逮捕されたジョンパルについて。彼は性的関係を多く持ったその女子高生にとって、唯一の信用ができる存在であり彼氏でした。その彼もまた(トジュンの母親が彼に面会に行ったときに分かるのですが)知的障害を持っていました。彼に母親がいないと聞きトジュンの母親は号泣しますが、この涙は純粋なものなのでしょうか?知的障害を負っている”のに”母親が居ないことを悪とするのは、ある種の偏見とごう慢にも思えます。仮にジョンパルの母親のみが(トジュンら親子と同様に)農薬自殺をしたのだとしても、トジュンと比較して「母親の庇護のない子は可哀そう」というのは恐らく誤りでしょう。これを誤りと気づけないことこそ、この母親の異常性の根源かもしれないと思うのです。

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