映研4年目の中西です。
この度のブログリレーでは千葉真一氏について書こうと思います。
導入
千葉真一氏について軽く紹介しておきます。
1939年福岡県福岡市生まれ、本名前田禎穂。器械体操と極真空手四段の経験を活かした迫力のある動きが特徴のアクション俳優です。1970年には自分と同レベルでアクションが可能な役者の育成が急務であると判断しジャパンアクションクラブ(JAC)を発足。俳優、指導者の立場に加えてミュージシャン、アクションの演出家、映画監督など、活躍の場は多岐にわたりました。
私が千葉真一氏出演作品において着目したいのがその喜劇性です。千葉真一氏が愛されるのには、彼自身が持つコメディ属性によるところが一側面としてあると思います。私が視聴した作品の具体例とともにその可笑しさをお伝えすることができれば幸いです。
「けんか空手極真拳」
この映画は私が千葉真一映画(省略のため千葉真一氏が出演している映画作品のことを今後このように記述する)に傾倒するきっかけとなった作品になります。あらすじはざっくり、千葉真一氏演じる大山が空手の全国大会で優勝を果たします。その試合で大山が負かせた空手道場に逆恨みされて命を狙われるというものです。今説明したあらすじからも世界観がにじみ出ておりますが、千葉真一映画では空手道場が極道並みの権力と武力を有しています。‘’空手‘’という日常的馴染みはないが日本の風土にマッチしているイメージがあるこのテーマは、盛れば盛るだけ違和感に邪魔されることなく可笑しさを増大させるのです。
序盤に最も衝撃を受けたシーンがあります。それは、かつて大山が暴漢に襲われているところを助けた女性が米兵と居るのを目撃したところから始まります。それを見て大山は彼女が米軍相手に売春をしていると思い、これではなぜ助けたのかわからないではないか!、と憤ります。大山は米兵と女性をそれとなく人気の無いところに連れていき、米兵を殴って追い払います。自分の身体を売って生活している女性を救いだす、という緊迫感があって英雄的な展開です。しかし、この次に大山がとった行動に私は度肝を抜かれました。あろうことか大山はその女性を強姦するのです。何が起こったかわからないまま事後のシーンに移り、彼女が翻訳家を目指していたため米兵と一緒に居たことが判明します。つまりは彼女が米兵相手に売春しているというのは大山の早とちりであり、残ったのは彼がただ単に強姦したという事実のみなのです。英雄的な存在として描かれていたはずの大山があっという間にとんでもない極悪人になってしまいました。ここから挽回する手段はあるのだろうかと思いながら事実を知った大山の次の行動を待っていると、彼は直角にお辞儀をしてただ一言「すまんっ」。強姦行為がその程度の謝罪で許される訳がないこと知っている私は彼のあまりの非常識さに思わず笑いを堪えきれませんでした。
考察
今回はこの場面に限って分析してみます。このシーンがなぜ可笑しいのか。一つには展開が’’止まらない’’というところにあります。私がこの映画を視聴した際、当然ヒーロー路線に戻るのだろうと予想しながら見ていました。つまりイメージダウンしたなら持ち上げる展開が来るだろうと。しかし次の展開で彼の印象は地に落ちることになります。通常ブレーキが踏まれるところで加速度的に展開が早まる‘’止まらなさ‘’による笑いは、振り返ってみれば思い当たる節があるのではないでしょうか?例えば昔の喜劇映画ではピタゴラスイッチのように連鎖的にハプニングが起こることで可笑しさが生まれています。「トムとジェリー」などのカートゥーンでも見られる現象だと思います。しかし「けんか空手極真拳」ではそれが主人公の印象の変化、それもマイナス方向への変化に表れているという点で私には衝撃だったのです。視覚的にこの手法が見受けられる映画は数多く存在しますが、少なくとも私の知る限り、印象がこの速度と落差で変化する映画は観たことがありません。
二つ目にあらゆる面で予想外なのです。一つ目に説明した’’止まらなさ’’は速度が求められるため、漫才やショート動画などの短時間での可笑しさが求められるプラットフォームにおいて非常に有効であると言えます。しかし、基本的に長時間である映画というプラットフォームではただでさえ予想しづらい超加速度的な’’止まらなさ’’が余計予想しづらいものになっています。大山が突然強姦しだすのも、雑に謝罪するのも、全く以て思いもよらない展開ですが、拍車をかけるようにプラットフォームもまた思いもよらないものだったのです。さらに付け加えると、この可笑しさが意図したものであるという痕跡が見当たらないのが恐ろしい。脚本の鈴木則文氏はこの畜生を全く意図せず生み出した可能性が高いのです。本人が意図していない可笑しさが爆笑を引き起こすという構図は、これまた思い当たる節があるかと思います。同じように大山というキャラクターの笑いどころは脚本家自身を含めて誰にも予想できるものではないのです。脚本家がこの状態を認識していないため大山は私たちの目には極悪人に映るが、作中では人気者として描かれることになります。この矛盾が私たち視聴者に無限のツッコミどころを与えてくれます。これらの理由から私にとって大山もとい千葉真一氏はもはや何をしていても面白い存在になりました。
三つ目に俳優が千葉真一氏であることがマストだったのです。この脚本を他の俳優が演じていたならここまで可笑しさは生まれなかったと思います。私はその秘密が千葉真一氏の身体的才能にあると考えました。本ブログの冒頭で紹介した通り、彼には器械体操と空手の経験があります。どちらも動きの精密さが重要な競技です。それを念頭によく観察してみると彼の挙動の節々からどこか機械を思わせるようなきびきびとした雰囲気を感じ取ることができます。競技経験を通じて染み付いた身体の制御術がクセになって表れているのです。可笑しさを生んでいるのはその雰囲気が見え隠れするという点です。会話シーン等ではだらんと無気力そうな雰囲気を出していますが、アクションシーンになるとそのきびきびと洗練された彼の身体的特性を遺憾なく発揮します。この’’緊張と緩和’’が可笑しさの発生源になっているのです。常に制御された動きをしているわけではないが、瞬間的に機械のような精密な動きをみせる、それでいていつそのきびきびした動きを取り戻しても不思議でないと思わせる肉体、これは彼の才能に他ならないと思います。彼の人相もこの場面の可笑しさに一役買っています。千葉真一氏の人相は目がぱっちりしていて笑顔がよく似合う陽気な男という印象です。そんな人が常識のかけらもない言動を取っていること、また、人気者として描かれていることには違和感が働かないこと、これらがこの場面の可笑しさを引き立てています。真剣な眼差しがうまい俳優でもあります。彼の敵を睨む顔だったり、緊迫した場面で見せる真剣な表情は緊張を生みます。この表情が鈴木則文氏の奇想天外な脚本と組み合わさったとき、至って真剣な表情で変なことをやっている、という’’緊張と緩和’’が生まれるのです。以上の理由から千葉真一氏が演じる役が非常識であればあるほど面白いのです。また、アクションシーンは競技経験に裏打ちされた純粋なカッコよさがあるのでアクション俳優として愛すべき理由しかないということがお分かりいただけるかと思います。
まとめ
以上、「けんか空手極真拳」の一場面について感じた可笑しさを拙い知恵と文章で、やや強引な所もあったかもしれませんが、伝えてみようと試みた次第でした。この映画ではこの場面同様、予想することが不可能な展開がいくつも用意されているので、初見の私は笑い転げ続けてしまいました。この映画を観て可笑しさを感じないという方々に私は深い憐憫の情を向けることしかできません。千葉真一映画の魅力としてこのような計算外の面白さがランダムに訪れるので、さながらクリスマスプレゼントを開ける子供のような心持ちで映画を観始め、欲しい内容と違って落胆することもあれば、ドンピシャに欲しかった内容がやってきてジャックポットを当てたかのような快楽を味わえることもあります。千葉真一映画の視聴人数もこの時代多くないので前評判なしに見ることができます。同じことの繰り返しで毎日が退屈だという方は千葉真一映画が持つランダム性で日々に彩りと笑顔を与えてみてはいかがでしょうか?
参考文献
- 監督:山口和彦、脚本:鈴木則文、中島信昭、原作:梶原一騎、影丸穣也、主演:千葉真一「けんか空手極真拳」、東映 https://filmarks.com/movies/10878
- 千葉真一、Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%83%E8%91%89%E7%9C%9F%E4%B8%80
- ベルクソン著、増田靖彦訳「笑い」光文社、2016