2023年度春新歓ブログリレー#18

IMG_1819『パレードへようこそ』

1年目のとみたです。
私が紹介するのは、2014年のイギリスの映画『パレードへようこそ』(Pride)です。
監督はトニー賞受賞の演出家マシュー・ウォーチャスが務め、この映画でも80年代のナンバーに合わせた演出が観客を楽しませます。

実在の団体「Lesbians and Gays Support Miners(炭鉱夫支援同性愛者の会)(以下LGSM)」の活動をもとにした映画です。

炭鉱労働者を支援したLGSMのリーダーをべン・シュネッツァーが演じ、グループのメンバーをアンドリュー・スコット、『はじまりへの旅』(Captain Fantastic)『1917 命をかけた伝令』(1917)のジョージ・マッケイが演じている。また、ウェールズの人々を演じるのは『ラブ・アクチュアリー』(Love Actually)『生きる LIVING』(Living)のビル・ナイ、『ハリー・ポッター』(Harry Potter)シリーズのイメルダ・スタウトン。

私のバイブルになっている映画です。

<ストーリー>
映画の舞台は1984年のイギリス。サッチャー政権下で起きた炭鉱ストライキのニュース映像から始まります。

炭鉱労働者たちのストライキに心を動かされたゲイ活動家のマーク・アシュトン(ベン・シュネッツァー)が、仲間と共に炭鉱労働者とその家族を支援するために募金活動(LGSM)を始めます。しかし、寄付の申し出はことごとく無視されます。彼らがゲイだからというだけで。炭鉱組合にとって彼らは別世界の住人でしかなかったからです。
そこに勘違いが元で唯一受け入れてくれる炭鉱が現れ、寄付金のお礼にウェールズの炭鉱町へと向かいます。
拒絶されながらも寄り添って、共に窮地を抜け出そうとするヒューマンドラマです。

<背景>
この時代のイギリスの炭鉱はたびたび題材にされ、『リトルダンサー』(Billy Elliot)や『ブラス!』(Brassed Off)などがあります。
鉄の女と呼ばれたサッチャーが分断を煽り広げていた80年代のイギリスでは、ゲイの権利を求めるデモが活発に行われていました。そこに廃坑を命じられ、職を失った炭坑労働者のストライキが重なります。
映画には次の会話があります。
カトリックの家で育ったジョー・クーパー(ジョージ・マッケイ)は、ゲイであることをずっと隠していた。20歳の誕生日にゲイ・パレード・イン・ロンドンに無理やり参加させられるが、ゲイの仲間にようやく出会えたところでの会話。
「僕まだゲイの人と会ったことなくて」
「マジで?」
「今日誕生日なんだ」
「何歳になったの」
「20歳」
「あなた犯罪者よ、結婚は16、ゲイは21から。知らなかったの?」
当時のイギリスは、性的同意年齢は異性間では16歳なのに対し、同性間は21歳となっていました。デモの主な主張の一つにこれがあります。同性愛者への差別はひどく、デモをすれば「病気だ」「気狂いだ」と暴言を吐かれ、集会をすると火炎瓶が投げられる。今では同性婚が認められていますが、かつて同性愛は犯罪で極刑を課された人もいました。

炭坑労働者たちによるストライキは、籠城作戦でインフラが止められたり警官との衝突もある過酷なものでした。マークは炭鉱労働者が虐げられる現状は、自分たち同性愛者のものと同じだと訴えます。
「彼らの敵はサッチャー、警察も敵だ。僕らと同じさ、差別主義者の敵がいないだけで」「僕らと一緒だ。警官とタブロイド氏と政府にいじめられてる」

この境遇の重なりが交わることのなかった二つの立場の人間を出会わせ、共闘という驚きの結果を生んだのです。

<私の好きな場面>
最後に私の好きな場面を少し紹介して終わろうと思います。

ウェールズの人たちとLGSMのメンバーが打ち解けた後に歓談する場面。お互いのことに興味を示す会話。
ウェールズの主婦「二人が夫婦なのは分かるの。でも教えて欲しいの」
ゲイカップル「あのこと?」
ウェールズの主婦「家事はどっちがやるの?」
てっきり“あのこと”を聞かれたかと思ったゲイカップルのあっけに取られた顔と、真剣な主婦の顔が面白いです。
サンドイッチを四角に切るクリフ(ビル・ナイ)と三角にきるへフィーナ(イメルダ・スタウントン)の会話の場面。
クリフ「私はゲイだ」
へフィーナ「知ってた。少し前に気づいたの」
クリフ「ゲイが村に来てから?」
へフィーナ「私の場合は1968年から」
生まれてからずっと村にいる幼馴染の二人の会話。二人の絆が垣間見え微笑ましくなります。ビル・ナイの笑顔が素敵な場面。

そしてなんといってもラストシーンです!!
「プライドを持て。人生は短いんだ」
マークのセリフがこの映画の全てを語っていると思います。
ゲイの権利を求めるパレードで幕を開けた物語。出会いと共闘を経て過ぎた1年後、その季節が再度やってきます。パレードへようこそ――。

2023年度春新歓ブログリレー#17

IMG_1798ビデオの中のあなたといつまでもっている

––––aftersun』についての覚書

かないりょうすけ

 去る3月に大学を卒業した。専攻した映画研究では卒論で完全に打ちのめされ、批評を離れ映画作家としてさらなる研鑽を積むべく札幌を離れて東京に移った私に、久々に映画について書く機会が舞い込んだ思ってもみない出来事に浮き足立ち、題材は何にしようか、先々月に足繁く通ったシャンタル・アケルマン映画祭のことでも書いてみようか、などと逡巡していた5月末のある日、ものすごい映画に出会ってしまった。

526日に本邦公開となった映画aftersunである。

前評判も良く、ほどよい期待とともに映画館の椅子に腰掛けた私を、この映画は震えるような衝撃と感動でもって迎えてくれた。映画が進むにつれて私はたいような叫び出したくなるような衝動に駆られ服の裾を掴みながらスクリーンに釘付けとなり、エンドロールが流れ始めた時には感情の遣り場に困り果てて頭を抱えしまった。憧憬と喪失と昂揚感と愛おしさが混ざり合ったような夢のような心地で劇場を後にし、とんでもないものを見てしまったのだと愕然とするほどであった

映画は父と娘の、トルコでのひと夏のヴァカンスを題材としている。冒頭ホテルの一室で娘が父を撮影している荒いビデオカメラの映像が映し出され、ほどなくして場面は時制のはっきりしないレイヴ・パーティの断片的な映像へと変わる。ストロボのように明滅を繰り返す画面。パーティには大人の女性、おそらく現在の成長した娘ソフィと、踊っている父の姿がある。映画はやがて父とのヴァカンスの日々を描写し始める。それは回想であり、成長したソフィの記憶なのだということを観客は知る。

ふたりの海辺のヴァカンスの日々は、通常の映画に見られるような透明なカメラとが持参したビデオカメラによる映像の両者が入り混じる形で描かれる。時折回想は寸断され、レイヴの場面が差し挟まれることで、ソフィとともに観客はいっとき記憶の再生から醒め、またすぐに回想へ戻っていく。

つい目を惹くのはビデオカメラの荒いルックの映像だが、そちらについてはあとで触れるとしよう。通常の映画叙述としてのカットもまた素晴らしく構成されている。ひとつひとつの画角、例えばクロース・アップでは通常必要な人物のサイズよりもう一歩寄って、ロング・ショットではもう一歩引いて撮られている印象がある。それらは人物や事物といった画面内のモティーフを類的なものとしてみなす記号性から引き剥がし、そのもの自体の質感や手触りを刻印する役割を果たしているようだ。フレーム内の構成において、モティーフを中心に据えてほかを背景とするような撮り方でなく、全体のコンポジションを優先して配置し、そこにたまたまモティーフが映り込んだかのようなさりげなさを演出しているのもそれに寄与している(父がホテルの一室でひとり太極拳をしている場面の人物配置などはこれにあたる)カメラの運動も秀逸だ。ごくゆっくりとしたパンやティルト、ドリー浅いフォーカス変化によって瞑想的な耽美性現出させ客観的な事実の羅列としての視線でなく内心の記憶を辿るソフィの主観的なまなざしを観客に共有させている。こうした撮影面の工夫と前述した場面の交替によって、モノローグや説明的な要素を排しいてもなお観客は眼前の出来事が過去のものであることを体感によって了解できる。映像のもつ現在性この過去の感覚共存する映像は、記憶と呼ぶにふさわしい質感を備えている。

過去から現在にわたる、娘の父との関係性豊かさと複雑さが映画の主題をなしている劇中ではふたりの会話ら窺い知れる範囲以上のことについて説明されることは一切なく、観客はふたりのやりとりから状況を補完して理解していく。ソフィの父と母は離婚しているようだ。今、娘は母と住んでいて、父とは普段会っていない。父はおそらく金銭的に余裕がないようだ映画が進むにつれてがどうやら内心に何かを抱えているらしいことも推察されるようになってくる。父がホテルでひとり泣いている。夜の街を駆け回る。故郷には帰らないと漏らす。11歳の誕生日の思い出を娘に問われて、ビデオカメラを止めさせてから暗い声色でぽつぽつと語る。記憶の中では決定的なことはなにも語られないが、れら場面がもたらす静かな不穏さ現在のソフィがこの夏を、おそらくは大切な記憶として思い返しているということが観客をある認識へと連れていく。娘は、このあと父には一度も会っていないのではないか。これが二人の最後の夏なのではなかろうか。そのことを父はわかっていたのではないか。もしかすると、父はすでに––––

ソフィの目線をなぞり、映画が描くヴァカンスの日々を記憶として追いかける中で、親子の微笑ましいやりとりに隠れた複雑な心理が浮かび上がってくる。まだ11歳のソフィは無邪気に普段会えない父との日々を楽しんでいる。その姿を大人になったソフィとともに観客は懐かしく見つめる。父は娘の言動のひとつひとつを柔らかく受け止め、笑いかけ時にふざけ合いながら、子を気に掛ける優しいとして振る舞っている子供のソフィに気づかない彼の心の機微が、大人になったソフィと観客には伝わってくる。父も完璧な人間ではなかったということ。普段会えない娘と会うことの嬉しさと同時に、彼女の日常に自分がいないさみしさ、夏が終われば自分のもとからまた離れていくつらさもあったであろうこと。どんどん成長する娘に伝えられることの少なさ、それでも父として何かを残したいという焦り、当時のソフィには知り得なかっ感情が父の表情や背中から痛烈に感じられる。親子は近いようでいて、親子であるがゆえに遠く隔たってもいる。

こうしたことに対して明示的答え合わせはなく、ただ日々の連続を描く映像から観客が想像を働かせるのみだ。だからこそふたりの関係性は汲み尽くせない豊かさをもっている。わたしたちの人生で、記憶のなかで白黒がつくことないくらもない。むしろ曖昧で答えのない記憶だからこそ、わたしたちはそれを憶えいるのかもしれない。そして記憶に織り込まれた謎の汲み尽くせなさゆえに、わたしたちはそこへ何度も立ち還り、ついつい考えをめぐらせてしまう。ソフィはそうして何度もこの記憶をたどり、ビデオを何度も再生し父の姿にその謎の答えをみようとしているのだろう。あのとき父何を考えていたのだろうか

そう、この夏はビデオカメラに記録されているのだ。ソフィが父を撮り、父が娘を撮った映像の中にヴァカンスの日々は残っている。大人になったソフィは映像を見返している。父もまた、トルコのホテルで映像を見ていた。ビデオカメラの映像前述のクロース・アップが多く使用され、断片的にものを映してる。そこには映ったものと同時に、映らなかったものもある(観客はそれを見ている)フレームの外に追いやられてしまったもの、記憶からこぼたもの、汲み尽くせなかったもの。それは自然と映画全体へと波及してくる。観客が目にするトルコでのヴァカンスの記憶もまたカメラという装置によって撮影されているがゆえに、そこに映っているものがすべてではないという認識があらわれる。記憶が取りこぼしたものを観客は探し始める。あのときわからなかったことを追い求めるソフィのまなざしと、フレームの外のできごとへ意識を向ける観客のまなざし重なり合う。観客はソフィの記憶の中へ釘付けにされる。

ビデオカメラが記録しているものはもうひとつある。それは撮っているその人自身ソフィがベランダで「ヘンな動き」をする父を撮った映像には、ソフィのまなざしが色濃く残されている。父がプールで遊ぶ娘を撮るとき、その映像にもっとも強く残るのは父のまなざしである。大人になったソフィは父が幼い自分を撮った映像を見返しながら、そこに父の姿を見ていたのだろう。じっとカメラを構えて自分を映し続ける父と、大人になった娘がビデオを通して対面する。あのラストシーンには映像によっ時間を超えて記憶と向き合うことができるという希望があふれている。それが映画にできるすべてでなくてなんだろうか。

ラストシーンでソフィの心象イメージの中の父はビデオカメラを降ろすとゆっくりと扉の向こうへ帰っていく。扉の向こうにはレイヴのフラッシュが一瞬光る。あのパーティはソフィの記憶のなかで作り上げられた、父とのつながりの空間なのだろう。トルコでの最後の日、父は嫌がるソフィをよそに踊り始める。ソフィ父に手を取られて一緒に踊り出し、父と抱き合った。あの瞬間に父はソフィのなかで永遠になったのだろう。音楽とダンスとハグの感触が変質して記憶のなかで固着したのがレイヴで、その手触りに時間性はなく、あの空間で父と娘は永遠に踊り続けている。ソフィはいつでもそに還ってきて記憶のなかでほんの束の間、に触れることができる。そうしてまた現在に戻ってくることができる。それが人生のすべてではなかろうか。そうしてわたしたちは生きていくのではないだろうか?

トルコのホテルで父は娘の映像を見返していた。大人になったソフィのまなざしは、あの日の父のまなざしと繋がっている。ふたりはあの夏のビデオカメラを通して、ずっと見つめ合っているのだ。そのまなざしの交換がもたらすあたたかさは、成長したソフィにいつまでも残るだろう。日焼け後のクリームのように、痛みからそっと守るように。

2023年度春新歓ブログリレー#16

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皆さま、おはこんばんちわ。北大映画研究会の萱野です。
僕が今回紹介する映画は「ラ・ラ・ランド」です。
ミュージカル映画として有名な作品ですね。
本編を観たことはなくても、オープニングの映像を見たことはある方は多いかもしれません。

あらすじ:大都会ロサンゼルス。夢を叶えようと奮闘する男女が出会い、急速に互いの距離を縮めていく。恋愛成就か、夢の大成か、切ない運命が2人を待っていた。(Netflixより)

「夢」をテーマにしたハリウッド映画というだけあって、本物の「アメリカンドリーム」がリアリティをもって描かれます。
映画全編を通して、色々な形で「叶っていく夢」「叶わない夢」「形を変えていく夢」が描かれます。
人生を生きていくといつか誰もが直面する夢との向き合い方を、2人の主人公の視点で再び考えさせてくれる映画ですね。
そして、あらすじにもあるように、この映画は「夢」と「恋愛」の二軸で構成されています。この二つは、どちらも人生の中に、「幸福」と「後悔」を残していきます。そうして人生に残されていく「あのときの『もしも』」を思い浮かべるとき、僕たちの心には一人ひとりの物語が浮かんでいるのではないでしょうか。
この映画を観終わったとき、きっと皆さんの心には、美しくも切ない、叶わなかったいくつもの「もしも」と、誰もが抱える「物語」が浮かんでいることでしょう。