ブログリレー“木曜日”担当の新川です。分量が増えたために遅くなってしまいました。申し訳ありません。
先週書いていたように今回はアニメ『プリパラ』について書きたいと思います。ものすごいアニメだったので皆さんに観てほしいのですが、この記事は紹介ではなく個人的な分析なのでもろにネタバレを含みます。注意してください。しかも、かなり無軌道に書きなぐってしまい、まとまりがないです。重要なのは最初の概要部分と後半のレオナとファルルについてなので、そこだけでも読んでほしいです(ネタバレはひどいですが)。分量からは、それだけの熱量を生み出す“何か”がある作品だと読み取ってもらえればそれでいいです。
あと、ここに書かれている内容は38話までの一期についてであり、現在放送中の39話以降の二期の描写等は一切考慮していません。
“なぜというに、自己をもつこと、自己であること、は人間に許されたる最大のこと(真実に無限なる許容)であり、同時に永遠が人間に対して要求するところなのだから。”―キェルケゴール『死に至る病』
『プリパラ』は“み~んなトモダチ!!み~んなアイドル!!”のコピーに代表されるように「友情の尊さ」と「個性の肯定」の2つが主題となっている。《トモチケ》システムに代表される「友情の尊さ」の方もストーリーの根幹となっており語るべきことはたくさんあるが、今回は「個性の肯定」とそこから見える「多様性への寛容」について述べていく。
『プリパラ』には、その中では姿を変えてアイドルとして活動できる仮想世界のような施設《プリパラ》が登場する(以後作品名を『プリパラ』、この作中にある仮想世界を《プリパラ》とする)。《プリパラ》は、その中では誰もがアイドルになれることを謳っており、“なりたい自分にプリパラチェンジ”というフレーズや、OPテーマの歌詞“オシャレなあの子マネするより自分らしさがいちばんでしょ”“夢はもう夢じゃない誰だって叶えられる”“ステージ上がれば誰だってアイドル”などのフレーズからもわかるように、自分がなりたい自分、ありたい姿(『プリパラ』における《アイドル》という言葉はこういった自己実現をしているものという意味も含んでいるように見える)になれる楽園として描かれている。
『プリパラ』はこの《プリパラ》の性質もあってか、各キャラクターにおける個性が、最初はコンプレックスであったものが長所となったり、受け入れられていなかったものを自分の一部と認めて統合したり、あるいは無条件で肯定されたりと、ありのままの自分であることが素晴らしいという描き方をされている。しかもそれは、ただ自分だけが自分を認めるといった肯定のされ方ではなく、ライブの観客やアイドルのファン、クラスメイトといった“社会”も承認してくれる、承認するのが当たり前という形になっている。特に『プリパラ』では、後述するレオナとファルルという極めて特殊な個性を持つキャラクターさえも、自然にその個性が本人にも周囲の人間にも肯定されており、明らかに先進的な多様性への寛容を持った社会が描かれている、新しい価値観を提示する2010年代のアニメであるといえる。
コンプレックスの長所への転換による個性の肯定については、主人公の真中らぁらと準レギュラーの栃乙女ラブのエピソードが印象的である。らぁらはアイドルにあこがれる小学生だが、母親譲りの大きな声がコンプレックスで、音楽の時間などで歌うときだけは委縮してしまい逆に小さな声になってしまう子であった。しかし、彼女は1話で偶然《プリパラ》のステージで歌うことになってしまう。直前まで自分には無理だというらぁらに対し、ライブのパートナーであるみれぃは「プリパラが好きなら大丈夫」といったことや「世界中に向かって届くように思いっきり歌うぷり!(ぷりはみれぃのキャラづくりのための語尾)ここではすべての女の子にそれが許されているぷり!」とらぁらに《プリパラ》がどんな場所かを伝え、結果らぁらは思いっきり歌い、その声は人の心の奥に響く伝説のプリズムボイスであることが発覚する。2話では、らぁらの小学校では勝手に《プリパラ》に行くと《プリパラ》嫌いの校長によって罰があるという噂が流れているにもかかわらず、らぁらはみれぃとの約束を守るために《プリパラ》に向かうのであるが、この時、《プリパラ》で思いっきり歌えたことを思い出しており、「あたし行く……行かなきゃ!行きたい!」といって駆け出していることからも、明らかに彼女は約束以上に自分の声が肯定される場所である《プリパラ》を求めていたのである。この回ではライブ終了後観客のとある女の子に「素敵な歌をありがとう」と言われ、らぁらは歌うのを楽しいと思えるようになる。完全にコンプレックスが長所へと変わり、自身の個性を認められることで、自己実現へと踏み出せたのである。
栃乙女ラブは、4話でらぁらのファンの子の部活でのテニスの試合相手として登場したキャラクターであり、成人男性以上の身長と短い髪が特徴である。彼女は10話で再登場した際、「試合しているときは怖いけど、普段はすっごくかわいい」子としてらぁらたちに紹介される。だが彼女は「だって私こんなに背が高くて肩幅も広いし、プリパラに行ったってきっと浮いちゃうだけ」といってプリパラデビューできずにいた。しかし、らぁらが自分の声のことを例にして励まし、彼女は恐る恐るであるがプリパラデビューすることになる。そこで彼女は自分の体格を「素敵なプロポーション」「スーパーモデルのバランス」などと褒められる。《プリパラ》の内部でのクールビューティーな自分の姿を見た際には「これが私!?」と驚き、泣きながら「すごいわ!生まれ変わった気分!背が高くてもかわいくなれるのね!」と喜ぶのである。その後も、周囲の女の子たちに背の高さを憧れとされ、ナンパにテンパってテニスの際の人格という素が出てしまった時でさえ周囲はそれをほめそやすのである。これもまた、コンプレックスがそのまま長所として認められること、偽らない自分でも認めてもらえるということが描かれる場面である。
この二人の例で重要なのは、自分を別人にしてしまうただの変身ではなく、欠点だと思っていたものはそのままの変身であるのに(実際、明らかに身長は《プリパラ》内では変更できることが本編の描写から読み取れる)、それが長所として周囲の人間に認められていることである。《プリパラ》は少女を変身させるのに、それは別人とはならずあくまで自分であり、自分のまま自分の個性を肯定される。《プリパラ》はありのままの自分が肯定され、自信を取り戻すことのできる場所となっているのである。
長所になるというよりは、ある個性を自分の一部であることを認め、人格的に統合されることによって自分が肯定される例もあった。北条そふぃと南みれぃの場合がそれである。
北条そふぃはクールで完璧な天才アイドルとして皆の憧れの的であるが、実はそれは梅干を食べて一時的にシャッキリしただけの姿であり、普段の本当のそふぃは体力がないためにへにゃへにゃしており、メイクも髪のセットも、《プリパラ》に行くことさえ一人ではできない状態であり(ファンシーモードと呼ばれる)、姉のコスモや熱狂的ファンのそふぃ親衛隊がその面倒を見ながら、人前ではファンシーモードを隠している。そふぃはファンシーモード見せてはファンの心が離れてしまうというマネージャーのウサギの言葉を信じ込んでおり、「みんなはステージの私だけが好き」と思っている。アイドルのそふぃとファンジーモードのそふぃが分裂している様子は9話での鏡に映った姿などでかなり深刻に描かれている。しかし、偶然ファンシーモードの正体を知ってしまったらぁらとみれぃはファンシーモードもかわいいと肯定する。じかし、ただ自分の出世のためにそふぃを利用しようとするマネージャーのウサギ、正体を隠すことがそふぃの幸せにつながると信じている親衛隊、そふぃを甘やかすあまり自主性を認めてあげることができないコスモによって、そふぃは言いなりになることを拒めず、ステージの上での完璧なアイドルの姿という籠の中に閉じ込められてしまう。だが、籠から出ようとするそふぃのライブ演出に気が付いたらぁらはそふぃを救い出そうと奮闘し、その姿に親衛隊は心を動かされ、「普段の姿も割と好きでした」と告白し「私たちの本当のアイドルになってください」といってらぁらたちとユニットを組むように助ける。ファンシーモードのまま、自分の力でらぁらたちが待つ場所へたどり着き、自分でらぁらたちと組むことを選んだそふぃは、「私の大好きなプリパラ」の世界を思い出す。その後、そふぃは何事も可能な限り自分の力でやるようになり、髪のセットも自分でするようになる。その髪は最終回まで常に一本だけはねているが、それでもそれはアイドルのそふぃの姿であり、らぁらたちはその姿をほめる。この「一本だけはねてはいるがアイドル十分セットできている髪」の姿は、アイドルのそふぃとファンシーモードのそふぃが一個の人間に統合された象徴であり、そして、そうしてできたありのままでもアイドルの自分は、みんなが認めてくれるものなのである。
そふぃにおいては、皆に求められていないと思われていたありのままの自分も、そのままアイドルになれるという肯定によって人格が統合されたが、南みれぃの場合は全く別の統合のされ方がなされる。
南みれぃは、学校では厳格な風紀委員長(以下委員長)であるが、《プリパラ》では「ぷり」という語尾を使うポップでキュートなキャラ(以下みれぃ)を演じている。みれぃはアイドルとして人気をとるために計算によって作り上げたキャラクターであり、あくまでも自分ではなく演じているキャラクターである。それは3話でみれぃの正体が委員長だとらぁらに知られたときのやり取りで顕著に表れている。正直に私の感想を言えば、はたから見るとみれぃはかなり恥ずかしいキャラクターであり、それが堅物の委員長であったことはかなり衝撃的であったのだが、委員長は全く恥じることなく自分がみれぃであることを説明をする。つまり、作り上げたキャラクターは自分ではないからそのキャラクターがどんな存在であっても恥ずかしくないのである。その後の委員長の「(自分がみれぃであることを)一人ぐらいには本音を言えば気づかれたい」という発言も、本当は本物の偽らない自分である委員長がアイドルとして評価されてほしいという感情を裏付けているように感じる。問題は32話である。32話「みれぃ、ぷりやめるってよ」では、そのタイトルの通り、南みれぃが《プリパラ》内でも委員長のままアイドルであろうとする話である。「人気が出るようにと作り上げたキャラクターでありのままの存在に勝つと考えるのは甘かった」という考えに至った委員長は、素の自分でこそ全身全霊の力を発揮できると考えぷりを捨て、姿も現実と変わらないものにしてしまう。しかし、その後委員長は謎の不調によって現実世界でも《プリパラ》でも実力を発揮できなくなってしまう。しかし両方の南みれぃをずっと見守り続けてきた風紀委員の雨宮が、バレンタインに「ありのままの僕を受け取ってください」とメガネを外したのちに不細工な出来の手作りチョコを委員長に渡し、不調の原因を「すでに一心同体となったものを無理に捨てたため心のバランスが崩れたから」として、「ぷりのままで!」と言い放ったのちに、委員長がいつも行ってきた校則違反の指摘をまね、「私立パプリカ学園校則第一条“生徒は自分に自信を持たなければならない 甘さも厳しさもすべて自分なのだから”」ということで、南みれぃに委員長とみれぃがすでに一つの存在であることを教える。そして、その光景を見ていた全校生徒たちも、「ぷりのままで」の声をあげ、南みれぃの二面性そのものを南みれぃの個性として認め、肯定するのである。こうして彼女は風紀委員長である自分とアイドルである自分を別々のまま一つの自分の内面として統合し、アイドルとしての自信を取り戻したのである。自分の外部であったみれぃがアイドルとして活動するうちに内面化されるもそれを認めきれていない過程は、32話までの途中で描かれており、たとえば先ほど述べたように3話では正体の説明になんの恥ずかしさも感じていなかった委員長だが、9話や18話で正体を説明する際には赤面している。これはみれぃがいつの間にか自分の内面になったことで、自分が恥ずかしいキャラクターであることを無意識的に感じている描写であり、32話に至るための巧妙な伏線であった。
ここまでにあげた例は、これまでも様々な作品で描かれてきたような形の個性の肯定であり、特にこれからアイデンティティを確立していく女児をメインターゲットにしたアニメでは、特段珍しかったり新しかったりするものではないと思われる。しかし、次から述べるレオナとファルルという極めて特殊な個性の持ち主が、その個性をほとんど無条件で社会から承認される描写たちは、多くの視聴者を驚かし感動させ、このアニメを完全にオリジナルで新しい傑作へと昇華させたといっても過言ではない。
12話から登場したレオナ・ウェストは、ピンク色の髪でおとなしくて引っ込み思案な性格をしており、水色の髪で男の子っぽい言動が多く一人称がボクの双子の姉ドロシー・ウェストとは対照的な人物として描かれている。レオナは「たおやか」という形容詞が最もふさわしく、作中では最も古典的な女性らしさを持ったキャラクターである。しかし、18話冒頭でレオナとドロシーがらぁらたちの学校に転校してきたため、レオナが実は男性であったということが発覚する。このとき、その場にいた主人公たちは(そふぃを除いて)全員が予想だにしなかった事実に驚愕する。しかし、その後のやり取りと話の展開は過去例を見なかったものになる。らぁらが純粋な疑問から発した「どうして男の子なのに女の子の服を着ているのか?」「そもそも男の子はプリパラに行けるのか?」といった質問に対して「双子のドロシーといつも一緒だから」「プリチケが届いたから」と答えただけで全員が即座に納得し、それ以降性別については特に気にもかけないのである。またこのとき、“プリパラ憲章第12条「プリパラはプリチケさえ届いていれば何人もプリパラに出入りしていい」”というセリフが登場し、明確に《プリパラ》があらゆる人間や個性を認める場所であることが示される。クラスでのレオナの自己紹介でも、クラスメイト全員が一瞬でそういう人間なのだと納得し、18話はそれ以降レオナの性別の話は一切せず、レオナの主体性のなさや姉への依存が問題になって話が進んでいく。なお、ドロシーのクラスでの自己紹介では一人だけ女であるドロシーがボクという一人称を使うことは変だと言った生徒がいたが、30秒もしないうちに意見を改めている。唯一、大神田校長だけがレオナの性別について受け止めきれず否定的発言をしているが、この時点での大神田校長は《プリパラ》を絶対的に悪とみなしている人間であることを忘れてはいけない。この回でレオナは、幼稚園児になつかれる母性の持ち主であることが描かれたかと思えば、その次の場面では、木に登って引っかかった風船を取ってあげるという男らしさ(男子っぽさ)の持ち主とも描かれている。このとき周りの人物は、凡百のアニメのようにその女らしさや男らしさを囃し立てるのではなく、人の役に立つのが好きなレオナの性格とそれができる能力そのものを評価する。つまり、ジェンダーがどうこうの類型的な人間観ではなく、あくまでも、ただたくさんのいいところを持つレオナ個人そのものをありのままに認め評価しているのである。この古臭い性別意識が全く存在しないかのような空気は、後の34話で、誰も直せなかった壊れたおもちゃのロボットを、レオナが何の前触れもなく当たり前のように花柄のついた工具を取り出して直した際でも見られる。典型的な男の子っぽさや女の子っぽさを発揮しても、誰も性別的なことには言及せず一人の人間を見ているのである。レオナは結局、性自認も性嗜好もあいまいで、性別について言及されることはほとんどないまま一期最終回を迎えた。ここに、安易なカテゴリー分けではなく、個人の人間性そのものを認め肯定しようという多様性に寛容な新しい価値観の強いメッセージを感じる視聴者は少なくないはずである。
このように、レオナでは現在の社会で議論になっているような新しい価値観や多様性の受容について描かれていたが、これは性別のあいまいさよりもはるかに異質な個性を持つファルルがその異質さまで含めて全面的に肯定される最終回をもって、あらゆる異質なものを個性として認め、肯定し社会的にも承認を与える究極の寛容となる。
ファルルは、女の子たちのトップアイドルになりたいという願いから《プリパラ》のシステムの中で自然発生的に生まれた人工知能のような存在のアイドルである。ファルルは、機械のように完璧なパフォーマンスと、『プリパラ』での個性の象徴である口調などのコピーによって、マネーシャーのユニコンに従って、神アイドルとなるべく生まれた自分を全うしようとするが、らぁらたちとの交流によって芽生えた自我と感情、そして「神アイドルとなる存在に必要なのは友達ではなくファン」であるためにらぁらとの友情がバグとなって機能を停止してしまう。しかし、その後にとある奇跡によって《普通の女の子》として復活する。このファルルの復活までの話は『プリパラ』における主題「友情の尊さ」の極限であるが、もうひとつの主題である「個性の肯定」の極限はその復活後の《普通の女の子》となったファルルによって描かれる。復活後のファルルは、姿が変わり、しゃべり方も表情も感情表現も人間と区別できない自然なものとなったが、逆にコピー能力は失っており、「普通の女の子になった」と明言されている。しかし実際には、ケーキを食べてしょっぱいと言ったり、アツアツのもんじゃを冷たいと感じるなど、明らかに普通の人間とは全く異なる感覚を持っている描写がある。また、ファルルは、機能停止に陥る前の自我が生まれるかどうかの境界にあったとき、らぁらの妹のんを紹介され、「妹とは何か?」という質問を発し、それにらぁらが「小さいけど結構重たくって」「かわいい」などと答えたために、おもちゃのロボットを「ファルルののん」といってかわいがっていた。これはファルルが、自分がロボットのような存在だと自覚しており、自分と似た存在としておもちゃのロボットを選び取ったというある種のグロテスクさとファルルという存在の根本的な異質さを感じさせる象徴的場面であったが、この「ファルルののん」はファルルが《普通の女の子》になった後も「ファルルののん」として当たり前に妹のようにかわいがられているのである。これらの描写からは、復活後のファルルも、その本質の多くの部分が人間とは全く違う異質な存在のままであることが読み取れる。しかし、そんな異質な存在さえも、誰のまねでもなく自分だけの存在である限り、『プリパラ』では明確に《普通の女の子》と断言され、誰もが何の違和感も感じずにそういう存在としてファルルと分け隔てなく接するのである。そして最後、ファルルは「別のプリパラ」へと旅立つのであるが、ここで仮想世界しか知らなかったファルルが現実世界に踏み出すような安易な結末ではなく(恥ずかしながら私はそれを予想していた)、過度に我々が住む世界の価値観を一般化せずに、《プリパラ》の中で生まれたというその異質な生い立ちさえも全面的に肯定し、彼女にとってのもともとの世界をそのまま広げて、彼女に彼女だけの彼女らしい成長の余地を認め、どこまでも彼女の存在そのものを尊敬した結末を迎えた。
ファルルにおいて肯定された個性は、明らかに人間とは全く違う存在であるという異質さであった。このような仮想的で未来的な個性までも当然のごとく肯定してしまう究極的な「多様性への寛容」は、これからより複雑・多様化する個人と社会に現われるであろう誰も予想しえなかった価値観や個性についても、その新しさや異質さを受け入れて、一個の存在をありのままの姿で評価することのできる人間と、その人間たちが作り出した誰もが自己実現を果たせる(み~んなアイドル!!)新たな世界の可能性を描き出しているのではないだろうか。少なくとも私は、この作品で描かれたお互いのありのままを認め合う世界に感動し、この記事を書くに至っている。
今回は『プリパラ』の主軸となっている2つのテーマのさらに1つについてしか述べていないが、他にも、もう一つのテーマ「友情の尊さ」から作られたストーリの本筋も、数々のハチャメチャでふざけているが作りこまれた設定・描写・展開・台詞、かわいらしかったりイカれていたりするが魅力的なキャラクターたちとその関係性、仮想世界・人工知能周りのSF性(特に、姿も名前も自由にできるため、口癖やキャラクター性で自分を定義することが必要になる世界において、完璧なコピーができるファルルの登場にアイデンティティが揺らぐ描写はサイバー系SFとして評価が高い)、ファルルの持つキリスト教的モチーフ、タツノコの高いCG技術によるライブ映像などの見どころもたくさんある2010年代指折りの傑作アニメなのでみんな観ましょう。
あと、こんな記事をブログにのっける人間がいる程度にはこのサークルも多様性に寛容ですのでどんな個性の新入生でもぜひ新歓に。