【新歓企画告知】セッション

どうも今晩は、新川です。

告知が大変遅くなって申し訳ありませんが、新入生と一緒に映画を観に行こうという企画の第二弾のお知らせです。

4/26(日)16:00 ディノスシネマズ札幌劇場にて『セッション』を観に行きたいと思います。集合は20分前の15:40分に受付付近です。参加希望者は、このホームページにある映研のアドレスにメールするか、明日の新歓で希望を取るのでその時に連絡先を教えてください。

終了後は希望者で食事を考えています。お店は人数次第なこともあり、検討中ですが、翌日が月曜日なので終了はあまり遅くならないようにします。食事をしながら『セッション』の内容について語り合いましょう。

先週の企画でのバードマンは、僕は行けなかったのですが、なかなか好評だったようです。今回の映画もかなり期待されている映画なので楽しみですね。

以下は『セッション』の紹介です。

予告

あらすじ

【完璧】を求めるレッスンは常軌を逸し、加速していく―。

名門音楽大学に入学したニーマン(マイルズ・テラー)はフレッチャー(J・K・シモンズ)のバンドにスカウトされる。ここで成功すれば偉大な音楽家になるという野心は叶ったも同然。だが、待ち受けていたのは、天才を生み出すことに取りつかれたフレッチャーの常人には理解できない〈完璧〉を求める狂気のレッスンだった。浴びせられる罵声、仕掛けられる罠…。ニーマンの精神はじりじりと追い詰められていく。恋人、家族、人生さえも投げ打ち、フレッチャーが目指す極みへと這い上がろうともがくニーマン。しかし…。 ―公式サイトより

アカデミー賞 助演男優賞(J・K・シモンズ)・録音賞・編集賞の3部門受賞、作品賞・脚色賞ノミネート ゴールデン・グローブ賞 助演男優賞(J・K・シモンズ) サンダンス映画祭 グランプリ・観客賞 その他受賞多数

才能あふれる新入生ドラマーを鬼教師がしごいてしごいてしごきまくる、という内容。パンフレットや公式サイトでは”狂気”という表現が多用され、”音楽版ハートマン軍曹”という噂が聞こえてくるほどに過酷なレッスン描写が楽しみである。

監督・脚本のデミアン・チャゼルはこれが監督二作目らしく、まだ28歳と非常に若い。高校時代に名門バンドでジャズドラムをしていた時の、悪夢のようなスパルタ指導がアイディアのもとになっているとか。製作費獲得のためいったん18分の短編で作られ、それが絶賛されたために長編映画製作に至った。

正直なことを書くと、まだ作品が少ない監督の、これから観る(まだ観ていない)作品を紹介することは難しいので、これ以上書けることはないんですが、予告編から伝わってくる殺伐とした空気や、天才の扱い方、方々から聞こえる絶賛の評価等で、個人的に今一番期待している映画です。時間がある方はぜひ観に行きましょう。

 

【新歓企画告知】バードマン

おはようございます

三年になってもなお過去の自分が落としまくった語学に追いかけられています、社本です。みんな辛くなったからってすぐ逃げ出しちゃいけないよ!二十歳になって好きなことだけやってればいいなんてことはないのだと気付きました。でも、やりたいことのためには過去それ自体では意欲を感じなかったものにも必要性を感じるので意欲が生じることもあるということも知りました。

 

映画を皆で観に行こう!新歓企画のお知らせです。

4/18(土) 16:45 シネマフロンティアの受付付近にて待ち合わせ

17:00〜の回の『バードマン、あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)』

を観に行きたいと思います。

このあと希望者でご飯でも行きたいと思っています。お店は検討中。女の子が多かったらおしゃれなとこ行きたいし男の子多かったらどこがいいのかな 共にバードマン責任者の田中くんと相談します。

以下あらすじ

リーガン・トムソン(マイケル・キートン)は落ち目のハリウッド俳優である。かつては『バードマン』という3本のブロックバスター映画で主役のスーパーヒーロー、バードマンを演じ数十億ドルの興行収入を稼ぐほどのスター俳優だったが、それ以降ヒットに恵まれず、20年以上が経過していた。60代となり、家庭でも失敗したリーガンは『かつてバードマンを演じた俳優』として惨めな生活を送っていた。

単なる落ちぶれたアクション俳優ではなく、アーティストとしての自分に存在意義を見いだそうと自暴自棄になったリーガンは、ブロードウェイ進出という無謀な決断をする。

 です!

ゴールデングローブ賞には最多7部門にノミネート、2部門を受賞。アカデミー賞に最多9部門にノミネートされている。

です!

予告編を映画館で観たのですが良すぎた。

予告も貼っておきますね。

観たくなったでしょ!?!?ほらほら!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!

余談ですが、バードマンのあとにご飯でもと書きましたね。その時には確実に今観たバードマンの話を皆とできます。たとえ普段映画を観ていなかったとしても、その時は絶対に話せます。

他者と映画を共有するというのはいいものです。自分では気付けなかった注目すべき点を皆が見ていたり、私はこのシーンをこう感じたけどこの人はこうだったのか、とか

特にその人特有の観点が見えるとすごく面白いですね。

最近面白かったのは、新川くんが『アメリカン・スナイパー』について、「日本車ってステータスだから、確実に日本車でなくてもホンダなどと書いてあるステッカーが貼ってある、作中でもそのような描写があった」って教えてくれたことですかね へーーーーーーそうなんだーーーーーってなった

また、私はジャニオタでNEWSのメンバーの加藤シゲアキくんのいわゆる「担当」です。(担当=一番好きなジャニーズタレントのこと。(ex.○○担)しかし基本的にジャニオタは拗らせているので、単純に一番好きだけの意味を持っているわけではない。しかし担当を掛け持っている人や、逆にその人だけ!といったオンリー担などと様々なため、定義はオタクによって異なる)

彼は映画が好きで、そして『ニンフォマニアック vol,1』について「いやー俺笑っちゃったよ、今年の一番かも!」とかいう見事にとち狂った感想をぶっぱなしたり、私も大好きキム・ギドク監督が好きだったり、一昨年のベストが『SHAME』、昨年のベストが『FORMA』という、もうサイコー過ぎる男なのですが、彼がひとりで日曜23:00からFMヨコハマでやっているラジオでよく観た映画の話をしています。

それにどうせ彼はこれ観てるだろ、って映画を観に行ったときはせっせと感想を送りつけています。時々読んでくれます。昨年でしたらアデル、her,スノーピアサー、とかについてですかね。今年は薄氷の殺人とかかな

アデルの時に「僕も全く同じ感想です」と言っていたときはうれしかったなぁ

私という主体においてのみ認識可能な「この」感動、決して外に出ることはない「この」感動が、他者と共有が可能だと分かった時の喜び、素晴らしいものですよ。それがジャニタレだろうと、横にいる映研部員だろうと。

では、まだ見ぬ新入生とバードマンを観られること、期待しています。

 

【春新歓ブログリレー】『プリパラ』における「個性の肯定」と「多様性への寛容」について

ブログリレー“木曜日”担当の新川です。分量が増えたために遅くなってしまいました。申し訳ありません。

先週書いていたように今回はアニメ『プリパラ』について書きたいと思います。ものすごいアニメだったので皆さんに観てほしいのですが、この記事は紹介ではなく個人的な分析なのでもろにネタバレを含みます。注意してください。しかも、かなり無軌道に書きなぐってしまい、まとまりがないです。重要なのは最初の概要部分と後半のレオナとファルルについてなので、そこだけでも読んでほしいです(ネタバレはひどいですが)。分量からは、それだけの熱量を生み出す“何か”がある作品だと読み取ってもらえればそれでいいです。

あと、ここに書かれている内容は38話までの一期についてであり、現在放送中の39話以降の二期の描写等は一切考慮していません。

“なぜというに、自己をもつこと、自己であること、は人間に許されたる最大のこと(真実に無限なる許容)であり、同時に永遠が人間に対して要求するところなのだから。”―キェルケゴール『死に至る病』

『プリパラ』は“み~んなトモダチ!!み~んなアイドル!!”のコピーに代表されるように「友情の尊さ」と「個性の肯定」の2つが主題となっている。《トモチケ》システムに代表される「友情の尊さ」の方もストーリーの根幹となっており語るべきことはたくさんあるが、今回は「個性の肯定」とそこから見える「多様性への寛容」について述べていく。

『プリパラ』には、その中では姿を変えてアイドルとして活動できる仮想世界のような施設《プリパラ》が登場する(以後作品名を『プリパラ』、この作中にある仮想世界を《プリパラ》とする)。《プリパラ》は、その中では誰もがアイドルになれることを謳っており、“なりたい自分にプリパラチェンジ”というフレーズや、OPテーマの歌詞“オシャレなあの子マネするより自分らしさがいちばんでしょ”“夢はもう夢じゃない誰だって叶えられる”“ステージ上がれば誰だってアイドル”などのフレーズからもわかるように、自分がなりたい自分、ありたい姿(『プリパラ』における《アイドル》という言葉はこういった自己実現をしているものという意味も含んでいるように見える)になれる楽園として描かれている。

『プリパラ』はこの《プリパラ》の性質もあってか、各キャラクターにおける個性が、最初はコンプレックスであったものが長所となったり、受け入れられていなかったものを自分の一部と認めて統合したり、あるいは無条件で肯定されたりと、ありのままの自分であることが素晴らしいという描き方をされている。しかもそれは、ただ自分だけが自分を認めるといった肯定のされ方ではなく、ライブの観客やアイドルのファン、クラスメイトといった“社会”も承認してくれる、承認するのが当たり前という形になっている。特に『プリパラ』では、後述するレオナとファルルという極めて特殊な個性を持つキャラクターさえも、自然にその個性が本人にも周囲の人間にも肯定されており、明らかに先進的な多様性への寛容を持った社会が描かれている、新しい価値観を提示する2010年代のアニメであるといえる。

コンプレックスの長所への転換による個性の肯定については、主人公の真中らぁらと準レギュラーの栃乙女ラブのエピソードが印象的である。らぁらはアイドルにあこがれる小学生だが、母親譲りの大きな声がコンプレックスで、音楽の時間などで歌うときだけは委縮してしまい逆に小さな声になってしまう子であった。しかし、彼女は1話で偶然《プリパラ》のステージで歌うことになってしまう。直前まで自分には無理だというらぁらに対し、ライブのパートナーであるみれぃは「プリパラが好きなら大丈夫」といったことや「世界中に向かって届くように思いっきり歌うぷり!(ぷりはみれぃのキャラづくりのための語尾)ここではすべての女の子にそれが許されているぷり!」とらぁらに《プリパラ》がどんな場所かを伝え、結果らぁらは思いっきり歌い、その声は人の心の奥に響く伝説のプリズムボイスであることが発覚する。2話では、らぁらの小学校では勝手に《プリパラ》に行くと《プリパラ》嫌いの校長によって罰があるという噂が流れているにもかかわらず、らぁらはみれぃとの約束を守るために《プリパラ》に向かうのであるが、この時、《プリパラ》で思いっきり歌えたことを思い出しており、「あたし行く……行かなきゃ!行きたい!」といって駆け出していることからも、明らかに彼女は約束以上に自分の声が肯定される場所である《プリパラ》を求めていたのである。この回ではライブ終了後観客のとある女の子に「素敵な歌をありがとう」と言われ、らぁらは歌うのを楽しいと思えるようになる。完全にコンプレックスが長所へと変わり、自身の個性を認められることで、自己実現へと踏み出せたのである。

栃乙女ラブは、4話でらぁらのファンの子の部活でのテニスの試合相手として登場したキャラクターであり、成人男性以上の身長と短い髪が特徴である。彼女は10話で再登場した際、「試合しているときは怖いけど、普段はすっごくかわいい」子としてらぁらたちに紹介される。だが彼女は「だって私こんなに背が高くて肩幅も広いし、プリパラに行ったってきっと浮いちゃうだけ」といってプリパラデビューできずにいた。しかし、らぁらが自分の声のことを例にして励まし、彼女は恐る恐るであるがプリパラデビューすることになる。そこで彼女は自分の体格を「素敵なプロポーション」「スーパーモデルのバランス」などと褒められる。《プリパラ》の内部でのクールビューティーな自分の姿を見た際には「これが私!?」と驚き、泣きながら「すごいわ!生まれ変わった気分!背が高くてもかわいくなれるのね!」と喜ぶのである。その後も、周囲の女の子たちに背の高さを憧れとされ、ナンパにテンパってテニスの際の人格という素が出てしまった時でさえ周囲はそれをほめそやすのである。これもまた、コンプレックスがそのまま長所として認められること、偽らない自分でも認めてもらえるということが描かれる場面である。

この二人の例で重要なのは、自分を別人にしてしまうただの変身ではなく、欠点だと思っていたものはそのままの変身であるのに(実際、明らかに身長は《プリパラ》内では変更できることが本編の描写から読み取れる)、それが長所として周囲の人間に認められていることである。《プリパラ》は少女を変身させるのに、それは別人とはならずあくまで自分であり、自分のまま自分の個性を肯定される。《プリパラ》はありのままの自分が肯定され、自信を取り戻すことのできる場所となっているのである。

長所になるというよりは、ある個性を自分の一部であることを認め、人格的に統合されることによって自分が肯定される例もあった。北条そふぃと南みれぃの場合がそれである。

北条そふぃはクールで完璧な天才アイドルとして皆の憧れの的であるが、実はそれは梅干を食べて一時的にシャッキリしただけの姿であり、普段の本当のそふぃは体力がないためにへにゃへにゃしており、メイクも髪のセットも、《プリパラ》に行くことさえ一人ではできない状態であり(ファンシーモードと呼ばれる)、姉のコスモや熱狂的ファンのそふぃ親衛隊がその面倒を見ながら、人前ではファンシーモードを隠している。そふぃはファンシーモード見せてはファンの心が離れてしまうというマネージャーのウサギの言葉を信じ込んでおり、「みんなはステージの私だけが好き」と思っている。アイドルのそふぃとファンジーモードのそふぃが分裂している様子は9話での鏡に映った姿などでかなり深刻に描かれている。しかし、偶然ファンシーモードの正体を知ってしまったらぁらとみれぃはファンシーモードもかわいいと肯定する。じかし、ただ自分の出世のためにそふぃを利用しようとするマネージャーのウサギ、正体を隠すことがそふぃの幸せにつながると信じている親衛隊、そふぃを甘やかすあまり自主性を認めてあげることができないコスモによって、そふぃは言いなりになることを拒めず、ステージの上での完璧なアイドルの姿という籠の中に閉じ込められてしまう。だが、籠から出ようとするそふぃのライブ演出に気が付いたらぁらはそふぃを救い出そうと奮闘し、その姿に親衛隊は心を動かされ、「普段の姿も割と好きでした」と告白し「私たちの本当のアイドルになってください」といってらぁらたちとユニットを組むように助ける。ファンシーモードのまま、自分の力でらぁらたちが待つ場所へたどり着き、自分でらぁらたちと組むことを選んだそふぃは、「私の大好きなプリパラ」の世界を思い出す。その後、そふぃは何事も可能な限り自分の力でやるようになり、髪のセットも自分でするようになる。その髪は最終回まで常に一本だけはねているが、それでもそれはアイドルのそふぃの姿であり、らぁらたちはその姿をほめる。この「一本だけはねてはいるがアイドル十分セットできている髪」の姿は、アイドルのそふぃとファンシーモードのそふぃが一個の人間に統合された象徴であり、そして、そうしてできたありのままでもアイドルの自分は、みんなが認めてくれるものなのである。

そふぃにおいては、皆に求められていないと思われていたありのままの自分も、そのままアイドルになれるという肯定によって人格が統合されたが、南みれぃの場合は全く別の統合のされ方がなされる。
南みれぃは、学校では厳格な風紀委員長(以下委員長)であるが、《プリパラ》では「ぷり」という語尾を使うポップでキュートなキャラ(以下みれぃ)を演じている。みれぃはアイドルとして人気をとるために計算によって作り上げたキャラクターであり、あくまでも自分ではなく演じているキャラクターである。それは3話でみれぃの正体が委員長だとらぁらに知られたときのやり取りで顕著に表れている。正直に私の感想を言えば、はたから見るとみれぃはかなり恥ずかしいキャラクターであり、それが堅物の委員長であったことはかなり衝撃的であったのだが、委員長は全く恥じることなく自分がみれぃであることを説明をする。つまり、作り上げたキャラクターは自分ではないからそのキャラクターがどんな存在であっても恥ずかしくないのである。その後の委員長の「(自分がみれぃであることを)一人ぐらいには本音を言えば気づかれたい」という発言も、本当は本物の偽らない自分である委員長がアイドルとして評価されてほしいという感情を裏付けているように感じる。問題は32話である。32話「みれぃ、ぷりやめるってよ」では、そのタイトルの通り、南みれぃが《プリパラ》内でも委員長のままアイドルであろうとする話である。「人気が出るようにと作り上げたキャラクターでありのままの存在に勝つと考えるのは甘かった」という考えに至った委員長は、素の自分でこそ全身全霊の力を発揮できると考えぷりを捨て、姿も現実と変わらないものにしてしまう。しかし、その後委員長は謎の不調によって現実世界でも《プリパラ》でも実力を発揮できなくなってしまう。しかし両方の南みれぃをずっと見守り続けてきた風紀委員の雨宮が、バレンタインに「ありのままの僕を受け取ってください」とメガネを外したのちに不細工な出来の手作りチョコを委員長に渡し、不調の原因を「すでに一心同体となったものを無理に捨てたため心のバランスが崩れたから」として、「ぷりのままで!」と言い放ったのちに、委員長がいつも行ってきた校則違反の指摘をまね、「私立パプリカ学園校則第一条“生徒は自分に自信を持たなければならない 甘さも厳しさもすべて自分なのだから”」ということで、南みれぃに委員長とみれぃがすでに一つの存在であることを教える。そして、その光景を見ていた全校生徒たちも、「ぷりのままで」の声をあげ、南みれぃの二面性そのものを南みれぃの個性として認め、肯定するのである。こうして彼女は風紀委員長である自分とアイドルである自分を別々のまま一つの自分の内面として統合し、アイドルとしての自信を取り戻したのである。自分の外部であったみれぃがアイドルとして活動するうちに内面化されるもそれを認めきれていない過程は、32話までの途中で描かれており、たとえば先ほど述べたように3話では正体の説明になんの恥ずかしさも感じていなかった委員長だが、9話や18話で正体を説明する際には赤面している。これはみれぃがいつの間にか自分の内面になったことで、自分が恥ずかしいキャラクターであることを無意識的に感じている描写であり、32話に至るための巧妙な伏線であった。

ここまでにあげた例は、これまでも様々な作品で描かれてきたような形の個性の肯定であり、特にこれからアイデンティティを確立していく女児をメインターゲットにしたアニメでは、特段珍しかったり新しかったりするものではないと思われる。しかし、次から述べるレオナとファルルという極めて特殊な個性の持ち主が、その個性をほとんど無条件で社会から承認される描写たちは、多くの視聴者を驚かし感動させ、このアニメを完全にオリジナルで新しい傑作へと昇華させたといっても過言ではない。

12話から登場したレオナ・ウェストは、ピンク色の髪でおとなしくて引っ込み思案な性格をしており、水色の髪で男の子っぽい言動が多く一人称がボクの双子の姉ドロシー・ウェストとは対照的な人物として描かれている。レオナは「たおやか」という形容詞が最もふさわしく、作中では最も古典的な女性らしさを持ったキャラクターである。しかし、18話冒頭でレオナとドロシーがらぁらたちの学校に転校してきたため、レオナが実は男性であったということが発覚する。このとき、その場にいた主人公たちは(そふぃを除いて)全員が予想だにしなかった事実に驚愕する。しかし、その後のやり取りと話の展開は過去例を見なかったものになる。らぁらが純粋な疑問から発した「どうして男の子なのに女の子の服を着ているのか?」「そもそも男の子はプリパラに行けるのか?」といった質問に対して「双子のドロシーといつも一緒だから」「プリチケが届いたから」と答えただけで全員が即座に納得し、それ以降性別については特に気にもかけないのである。またこのとき、“プリパラ憲章第12条「プリパラはプリチケさえ届いていれば何人もプリパラに出入りしていい」”というセリフが登場し、明確に《プリパラ》があらゆる人間や個性を認める場所であることが示される。クラスでのレオナの自己紹介でも、クラスメイト全員が一瞬でそういう人間なのだと納得し、18話はそれ以降レオナの性別の話は一切せず、レオナの主体性のなさや姉への依存が問題になって話が進んでいく。なお、ドロシーのクラスでの自己紹介では一人だけ女であるドロシーがボクという一人称を使うことは変だと言った生徒がいたが、30秒もしないうちに意見を改めている。唯一、大神田校長だけがレオナの性別について受け止めきれず否定的発言をしているが、この時点での大神田校長は《プリパラ》を絶対的に悪とみなしている人間であることを忘れてはいけない。この回でレオナは、幼稚園児になつかれる母性の持ち主であることが描かれたかと思えば、その次の場面では、木に登って引っかかった風船を取ってあげるという男らしさ(男子っぽさ)の持ち主とも描かれている。このとき周りの人物は、凡百のアニメのようにその女らしさや男らしさを囃し立てるのではなく、人の役に立つのが好きなレオナの性格とそれができる能力そのものを評価する。つまり、ジェンダーがどうこうの類型的な人間観ではなく、あくまでも、ただたくさんのいいところを持つレオナ個人そのものをありのままに認め評価しているのである。この古臭い性別意識が全く存在しないかのような空気は、後の34話で、誰も直せなかった壊れたおもちゃのロボットを、レオナが何の前触れもなく当たり前のように花柄のついた工具を取り出して直した際でも見られる。典型的な男の子っぽさや女の子っぽさを発揮しても、誰も性別的なことには言及せず一人の人間を見ているのである。レオナは結局、性自認も性嗜好もあいまいで、性別について言及されることはほとんどないまま一期最終回を迎えた。ここに、安易なカテゴリー分けではなく、個人の人間性そのものを認め肯定しようという多様性に寛容な新しい価値観の強いメッセージを感じる視聴者は少なくないはずである。

このように、レオナでは現在の社会で議論になっているような新しい価値観や多様性の受容について描かれていたが、これは性別のあいまいさよりもはるかに異質な個性を持つファルルがその異質さまで含めて全面的に肯定される最終回をもって、あらゆる異質なものを個性として認め、肯定し社会的にも承認を与える究極の寛容となる。

ファルルは、女の子たちのトップアイドルになりたいという願いから《プリパラ》のシステムの中で自然発生的に生まれた人工知能のような存在のアイドルである。ファルルは、機械のように完璧なパフォーマンスと、『プリパラ』での個性の象徴である口調などのコピーによって、マネーシャーのユニコンに従って、神アイドルとなるべく生まれた自分を全うしようとするが、らぁらたちとの交流によって芽生えた自我と感情、そして「神アイドルとなる存在に必要なのは友達ではなくファン」であるためにらぁらとの友情がバグとなって機能を停止してしまう。しかし、その後にとある奇跡によって《普通の女の子》として復活する。このファルルの復活までの話は『プリパラ』における主題「友情の尊さ」の極限であるが、もうひとつの主題である「個性の肯定」の極限はその復活後の《普通の女の子》となったファルルによって描かれる。復活後のファルルは、姿が変わり、しゃべり方も表情も感情表現も人間と区別できない自然なものとなったが、逆にコピー能力は失っており、「普通の女の子になった」と明言されている。しかし実際には、ケーキを食べてしょっぱいと言ったり、アツアツのもんじゃを冷たいと感じるなど、明らかに普通の人間とは全く異なる感覚を持っている描写がある。また、ファルルは、機能停止に陥る前の自我が生まれるかどうかの境界にあったとき、らぁらの妹のんを紹介され、「妹とは何か?」という質問を発し、それにらぁらが「小さいけど結構重たくって」「かわいい」などと答えたために、おもちゃのロボットを「ファルルののん」といってかわいがっていた。これはファルルが、自分がロボットのような存在だと自覚しており、自分と似た存在としておもちゃのロボットを選び取ったというある種のグロテスクさとファルルという存在の根本的な異質さを感じさせる象徴的場面であったが、この「ファルルののん」はファルルが《普通の女の子》になった後も「ファルルののん」として当たり前に妹のようにかわいがられているのである。これらの描写からは、復活後のファルルも、その本質の多くの部分が人間とは全く違う異質な存在のままであることが読み取れる。しかし、そんな異質な存在さえも、誰のまねでもなく自分だけの存在である限り、『プリパラ』では明確に《普通の女の子》と断言され、誰もが何の違和感も感じずにそういう存在としてファルルと分け隔てなく接するのである。そして最後、ファルルは「別のプリパラ」へと旅立つのであるが、ここで仮想世界しか知らなかったファルルが現実世界に踏み出すような安易な結末ではなく(恥ずかしながら私はそれを予想していた)、過度に我々が住む世界の価値観を一般化せずに、《プリパラ》の中で生まれたというその異質な生い立ちさえも全面的に肯定し、彼女にとってのもともとの世界をそのまま広げて、彼女に彼女だけの彼女らしい成長の余地を認め、どこまでも彼女の存在そのものを尊敬した結末を迎えた。

ファルルにおいて肯定された個性は、明らかに人間とは全く違う存在であるという異質さであった。このような仮想的で未来的な個性までも当然のごとく肯定してしまう究極的な「多様性への寛容」は、これからより複雑・多様化する個人と社会に現われるであろう誰も予想しえなかった価値観や個性についても、その新しさや異質さを受け入れて、一個の存在をありのままの姿で評価することのできる人間と、その人間たちが作り出した誰もが自己実現を果たせる(み~んなアイドル!!)新たな世界の可能性を描き出しているのではないだろうか。少なくとも私は、この作品で描かれたお互いのありのままを認め合う世界に感動し、この記事を書くに至っている。

今回は『プリパラ』の主軸となっている2つのテーマのさらに1つについてしか述べていないが、他にも、もう一つのテーマ「友情の尊さ」から作られたストーリの本筋も、数々のハチャメチャでふざけているが作りこまれた設定・描写・展開・台詞、かわいらしかったりイカれていたりするが魅力的なキャラクターたちとその関係性、仮想世界・人工知能周りのSF性(特に、姿も名前も自由にできるため、口癖やキャラクター性で自分を定義することが必要になる世界において、完璧なコピーができるファルルの登場にアイデンティティが揺らぐ描写はサイバー系SFとして評価が高い)、ファルルの持つキリスト教的モチーフ、タツノコの高いCG技術によるライブ映像などの見どころもたくさんある2010年代指折りの傑作アニメなのでみんな観ましょう。

あと、こんな記事をブログにのっける人間がいる程度にはこのサークルも多様性に寛容ですのでどんな個性の新入生でもぜひ新歓に。

【春新歓ブログリレー】こんばんは!

 

初めまして!藤女子大学4年の大関です。急にブログを書いてと頼まれたので何を書こうとうんうん悩んで、こんな時間になってしまいました…。

新入生の皆さん、入学おめでとうございます!新しい環境、ガイダンスの嵐、サークル勧誘のビラ攻撃で結構疲れてませんか?私は3年前皆さんと同じ状況だったわけですが、かなりへとへとになった記憶があります。何事も健康第一、しっかりごはんを食べてぐっすり眠りましょう!

さて、そろそろどのサークルも新入生をゲットするべく様々な活動をし始めます。気になるサークルは一通り見ておくことをオススメしますよ!無数にありますからね、全ては無理かもしれませんが。映研は新たな部員を1年生に限定しません。新2年生、3年生、どんとこいです。かくいう私は2年のときに入部しました。

あ、映研だから映画の話をします。映画、皆さん一度は観たことありますよね。邦画でも、洋画でも、アニメでも!このブログでは部員が観た映画や好きな映画を紹介していたりするのですが、正直「知らない…観たことない…」という人が多いんじゃないでしょうか。「映画観るの好きだけど詳しくない…(°ω°)」なんて思ってる君!ダイジョウブ、心配いりません。映画のサークルなのでもちろん詳しい人はいます。でも最初からガッツリ詳しい人は(たぶん)いません。映研に入ると今までの自分が観ていた映画の世界がグッと広がります。こんな面白い、変な、かわいい映画があったんだ!という発見を必ず体験するはずです。その体験を他の人と、先輩と、共有できたらなんかもっと楽しそうですよね!……あ、ちょっと興味でてきました?

映研の新歓は全3回あります。全部参加するのもよし、最初だけ来るのもよし。私たちは新入生の皆さんとお会いできるのを楽しみにしています。気軽に遊びにきてくださいね。

最後に私の好きな映画は「アメリ」「ハウルの動く城」「雨に唄えば」です。血の出る映画が苦手だったんですが、最近少しずつ慣れてきました。絶対観たい映画は「バードマン」。アカデミー賞の。凄いらしい。観たい。大した内容にはならなかった気がしますがこのへんで、おやすみなさい。

 

【春新勧ブログリレー】選んだもの

こんばんわ、2週間ぶりです。
あっという間に春休みが終わり、新学期1週間目にして早くも夏休みまでのカウントを始めた左合です。
私は長期休めのためだけに大学生をしているようなものです。

さて今までのブログを振り返って、どうも私事ばかりで、新入生のためになることを何も書いてないことに気づきました。ごめんなさい。ということで、今回は私が映研に入った経緯(やっぱり私事です)を簡単に紹介します。参考にしてみてね。

私は1年の冬に例会見学に行きました。多くの部員は1年の春と秋の新勧時期に来るのですが、私の場合はちょっと出遅れました。ただし、映研は「来る者拒まず、去る者追わず」スタンスでして、基本いつでも見学、入部は大丈夫です。
そんな訳で初見学の日、緊張と期待をしつつ例会の教室に行きました。ところが、そこでは男子生徒が1人座ってるだけでサークル活動をしてる様子が全くなく、てっきり私は教室を間違えたのかと思いました。で、確認したのですがやっぱりその教室でして、はて、目の前の男子学生に尋ねてみるか、どうしようかと迷っていたところ、遅れて2、3人の部員が集まってきました。どうやら映研の教室で合ってました。ひとまず安心して、とりあえず動向を観察しました。しかし、残念ながらこの日は新年最初の例会で人の集まりが特に悪く、結局来た部員は5人ほどでした。副部長が話を進めようにも、この人数では話し合いもなかなか進まず、ついでに都道府県ゲームに没頭していた先輩部員に他の部員の注意がそれてしまい、最終的に例会は早々と打ち切られ飲み会に行くことになりました。何となくついて行った飲み会ですが、私の知らない映画の話がたくさん出てきて嬉しかったのを覚えてます。その頃、映研内では特に『桐島、部活やめるってよ』が流行で、その日も話題の中心でした。まだ観てなかった私は人生で初めて映画格差なるものを感じました。帰り道、当時の副部長は私に「今日の例会は良くなかった、あれを見て君が映研に入部しないのは仕方がないと思う、でも桐島だけは映研に入らなくても観てほしい。」と言い残して去っていきました…。

もちろん、桐島はすぐ観ましたし、こうして映研にも入部してます。映研の良さ、悪さはやっぱり映研に来ないとわからないです。例会だけでももったいないです。例会と飲み会のセットで是非見学に来てほしいです!(お酒の強要とか全くないから安心してね)来週からの新勧で多彩な新入部員に会えるのを楽しみにしてます。

【春新歓ブログリレー】時間割

もう木曜日ですね。水曜担当高島です。

早寝の私がどうして遅くまで起きてるかと申しますと、時間割制作にうんうん唸っているからです。
他大学の時間割事情には詳しくないですが、新入生の皆さん、少しでも興味がある授業は1年生の内に絶対取っておいたほうがいいですよ。
私は去年、「大学生活初めてだから無理して詰め込まないでおこうっと」とか、「来年取ればいいしー」とか、ぶっ飛ばしたくなるほどゆるゆるおつむの1年生でした。誰か私を殴ってくれ。

2年生になると、演習が始まるのです。ゼミですゼミ。で、この演習を担当する教授が、後に皆さんの卒論の面倒を見て下さる教授になるのです。
ということは、2年生で受けてない演習の担当教授には卒論を見てもらうことが出来ない。例外もありますが。

私は教職の授業を受けてまして、これが2年生から牙をむく。かなり演習と被ってしまう。更に、頭ゆるゆる1年生の時に単位をいくつか落としてるので再履修でまた被る。よって、好きなゼミ取れなくて泣いています。
今年は哲学やら心理学やら受けたかったのに、その辺も教職と被る。つらい。つらい。

だから、皆さん!ぜひ!
早めに好きな授業受けまくっといてください。
こんな馬鹿は私一人で十分です。

明日の仮時間割だけかろうじて出来たので寝ます。

【春新歓ブログリレー】近況

皆さんこんにちは。番場です。

4月になってから一週間が経ち、とうとう授業が始まる時期になってきましたね。私も昨日、学科のガイダンスに行って参りました。楽しかった朝寝午後起き生活ももうすぐ終わりかと思うとまったく嫌な気分になってしまいます。

ガイダンスに行った後、最近行ってなかったゲオディノスへ向かい『イミテーション・ゲーム』を観ました。数学者チューリングの生涯を映画化した作品ですね。新川もブログで紹介してましたが、確かに面白かった。アウトサイダーがのたうちまわる映画はジャンル問わず大好きです。物理学者のホーキング博士を主人公にした『博士と彼女のセオリー』も最近観ましたが、あちらは聖人同士の睦み合い垂れ流しに思え、全くのめり込めませんでした。

以下、最近楽しみな映画の予告編。ネタ切れというわけです。

『セッション』ジャズドラマーと鬼教師の音楽スポ根ものでしょうか。サンダンス映画祭で大ウケだったそうな。

『インヒアレント・ヴァイス』PTAとホアキン・フェニックスの『ザ・マスター』コンビがトマス・ピンチョン原作の映画を作りました。大傑作、もしくは超珍作の予感。

『龍三と七人の子分たち』北野武監督作。久々です。タイトルフォントを最初に観た時は不安でしたが、予告編ではいつもの北野映画的画面が見られて安心しました。

『ブラックハット』漢、マイケル・マン最新作。うほほい。

とりあえず直近1ヶ月ではこんなもんでしょうか。

映研春新歓ブログリレーは今週の日曜でとりあえず終わりとなります。映研の雰囲気は伝わってるのでしょうか。伝わってるといいなあ。後一週間お楽しみ下さい。

番場巽己

 

【新歓ブログリレー】空の旅

※当記事には多少の脚色が含まれておりますことご了承下さい。

こんにちは。映研副部長の高峰です。
4月から3年生になりました。

金曜日の飲み会の席で番場部長にブログの依頼を受けてから、何を書こうかずっと考えていました。
僕の愛読する漫画雑誌『モーニング』で目を引いた新連載の話をするか、それとも日曜日に向かう、祖父宅のある京都の散策記でも書こうか…

 

新千歳空港に着いてから先の新連載の単行本を忘れたことに気付き、京都の天気が雨であることを知った僕は、とりあえず寝よう、と持病の先延ばし症候群の発作から座席に深く腰掛け足を伸ばしました。
ギリギリで空港に到着し、あわてて取った座席は非常口のある列の通路側だったので、壁のドアの分前の座席との間が広めに空いていました。
睡眠導入にと手に持った林真理子の恋愛小説を開いたとき、
「すみません」
若い女性の声と共に、僕の足の横に黒いキャリーケースが止まりました。
顔を上げるとそこには紺色のコートを着た女性が。僕は、その化粧の行き届いた顔、胸元に巻かれた薄水色のスカーフ、そしてケースの上部に貼られた“SKY CREW”の文字で確信しました。
「この人、スチュワーデスだ…!」

 

ブログのネタが舞い込んできたと喜ぶのも束の間、心の中は緊張でいっぱいになりました。
公共の場で知らない人に話しかけるなんて、しかもその相手が若くきれいな女性だなんて…
小心者の僕の心臓は激しく脈打ち、喉は渇いていきます。
僕の左隣に座った女性といえば、スマートフォンで手短にメールを済ませた後はイヤホンもせずにぐっすりと眠りこけている様子。
こっくりこっくりと舟をこぐ頭が気になります。
この日2度目の発作が起こった僕は、林真理子を読みながら機を待つことになりました。

 
数十分が経ち、フライトが後半の3分の1に差し掛かったころ、僕の左肩は女性の頭の重みを受け止めていました。
僕の目線の先にある文章では、主人公と元CAとの情事が描写されています。
今だ、と気を引き締めたとき、体に入った力が女性に伝わったのでしょうか。肩に感じていたものが消え、左を向くと女性と目が合いました。

「すみません、あの、CAのお仕事をされているんですか?」

 
それからの会話は詳しくは覚えていません。
スチュワートって日本にもいるんですか?
月に60時間もフライトがあるんですね。じゃあ1年のうち1ヶ月は空の上ってことになりますね!
等のしょうもないことをまくし立ててていたように思います。完全にキモいやつです。
彼女に聞いてわかったことは、空港に着いたら仕事だということ、CAがプライベートで飛行機に乗るときは非常口窓側の席に座るということなどなど。
あ、もちろん名前や連絡先などは聞けるわけないし聞いてませんよ。ナンパ目的ではないですからね。
そうそう、イントネーションから、彼女は関西の人のようでした。札幌住みではなさそうです。残念…!

 
飛行機が着陸し、お仕事頑張ってくださいと彼女に伝えて別れた後、阪急電鉄に揺られながら僕は思いました。
ショートフィルムの仕事がなければこんな勇気は出なかっただろう、と。
そうです。まだこのブログでは説明している人がいなかったかと思いますが、現在北大映研からは何人ものメンバーが『春一番』製作委員会という団体に出向いて北大の春新歓を題材にした映画の製作を行っています。
僕はそこで“制作”というロケ地交渉、小道具の準備、協力してくれそうな団体との交渉などを担当する部に所属しているのです。
そこで連日色々なサークル・部活への映画撮影の説明やエキストラの協力要請などを行っているからこそ、こんな冒険が出来たのだろう。そう思ったのです。
撮影日はGWを予定しています。
新入生の皆さん、もし興味があったら『春一番』にも是非顔を出してみて下さい。
エキストラとしてのご協力も絶賛受付中ですよ!

 
以上、副部長の高峰洋明でした。
新歓は4/17,24,30、高等教育推進機構のE218,219で行います。
新入生の方々とお会いすること楽しみにしています!

 
最後に、映研部員たちへ。

「プライベートのスチュワーデスと会話したかったら非常口窓側の隣の席に座れ!!」

【春新歓ブログリレー】ビラ配りの後に

みなさんこんばんは、木曜日担当新川です。今さらですが、読み方は”にいかわ”です。

今日はとあるアニメについて書こうと考えていたのですが、ちょっと資料を集めきれなかったので来週にしようと思います。ちなみにですが、僕はアニメから実写に興味を広げて映画研究会に入ったクチなので、映画よりもアニメについて語っていることが多いです。

 

というわけで、今回はとりとめもなく最近の映画研究会での活動について述べて、当団体の雰囲気を伝えることにしようと思います。

さて、昨日今日と我々はビラ配りを行っていました。昨日今日と健康診断に来ていた新入生は案山子のような何かを担いでいた団体を目撃したかもしれません。その辺は少し前の番場や平のブログを参考にしてください。明日も配ります。映画研究会の案山子や看板を持っている人間は間違いなく部員なので、どんな人がいるのか見に来てみる、話しかけてみるのもいいかもしれません。このブログにあるメンバーのページは、もう学年の更新をしている人とまだしていない人がいるので注意してください。

 

今回語りたいのはビラ配りそのもののことではなく、その合間合間の話です。ビラを配ったあと部室に撤収するのですが、そこで作業があったり、別のプロジェクトの用事まで時間があったり、あるいは何もないために、部員はすぐには解散せず、雑談したり映画を観たりしています。

たとえば昨日は『トータル・リコール』をげらげら笑いながら観ていました。シュワちゃんの浮きっぷりや明らかにおかしな描写・展開に突っ込んだり、お気に入りのシーンではしゃいだりと楽しんでいました。序盤の展開は寺沢武一の漫画『コブラ』でほぼそのままオマージュされていますね。もっとも、映画の公開時期と漫画の連載時期を考えるとフィリップ・K・ディックの原作小説の方が元みたいですが。その後は時間の都合で一部だけでしたが、2012年版の『トータル・リコール』を観ていました。ブレードランナーみたいなオリエンタル趣味の街並みや、埋め込み式の携帯電話など、サイバーパンク風のSF描写がかなり魅力的に見えたので、単体で普通に楽しめそうです。そのうち観ます。

今日は、今やっている映画や公開が近い映画について雑談をしていました。先々週僕が(一応)言及した『イミテーション・ゲーム』の話もしましたね。公開が近い映画の話については、4・5月に新入生と一緒に映画を観に行く企画もあります。何を観に行くのかはこの場で発表していいのかわからないので書きませんが、期待しておいてください。あとは、『マッドマックス 怒りのデスロード』の予告編をみんなで観たりしていました。明らかに異常で正気の沙汰ではない映像の数々に大盛り上がりでした。楽しみな映画について情報交換をするのはワクワクしますね。

というわけで、一応このサークルは映画を撮るサークルではあるのですが、それ以前に映画について楽しく語らうサークルであるという雰囲気が伝わっていれば幸いです。

あと、ここに書いた話題の内容は、僕のフィルターを通したことにより趣味が偏っている可能性がありますが、部員全体では非常に趣味が広いので安心してください。

【春新歓ブログリレー】一週間で見た映画の適当な感想

水曜担当高島です。結構後半までブログ書けてたのに、消えてしまいました。もういやだ…。でも仕方ないので、二周目の世界でのブログ、行きます。ほむらちゃんって大変だなあ。

この一週間は、映画を三本見ました。ちょっとだけ映研部員っぽくて自己満足しています。せっかくなので、雑に感想とか書きます。

一本目『人間の証明』
松田優作演じる刑事が、黒人青年殺害の事件を調べます。ニューヨークにも行っちゃいます。軽くカーチェイスもしてます。お金がかかっていそうでした。
泣ける映画を見たくて、紹介してもらったのですが、泣けませんでした。謳い文句も「泣ける」なのに。ジェネレーションギャップなのか、感受性が鈍ったのか、どちらもかな。悲しいです。
戦後においてのしがらみがテーマなので、やりきれない気持ちになりたい人におすすめします。

二本目『ソロモンの偽証 前篇・事件』
映研新二年の佐々木に誘ってもらって見ました。
ご存知学校裁判です。面白かった。もうすぐ後篇も公開しますね。楽しみです。
余談ですが、主演の中学生藤野涼子(ふじのりょうこ)さんが、映研部員の藤田諒子(ふじたりょうこ)と名前の印象丸かぶりで、無性に応援したくなりました。あと松子が泣くほどいい子。

三本目『イントゥ・ザ・ウッズ』
母に誘ってもらって見ました。
ジョニー・デップが好きなので楽しみにしていたのですが、出番がものすごく少ない。悲しかった。
メリル・ストリープ演じる魔女がやはり迫力ありました。
内容は、色んなキャラクターのストーリーが詰め込んであって、テーマがあんまり…分からなかった(小声)。誰か見た人いらっしゃいましたら、話しましょう。教えてください。

以上適当な感想でした。ループ、抜けられたかな?