【新歓企画告知】セッション

どうも今晩は、新川です。

告知が大変遅くなって申し訳ありませんが、新入生と一緒に映画を観に行こうという企画の第二弾のお知らせです。

4/26(日)16:00 ディノスシネマズ札幌劇場にて『セッション』を観に行きたいと思います。集合は20分前の15:40分に受付付近です。参加希望者は、このホームページにある映研のアドレスにメールするか、明日の新歓で希望を取るのでその時に連絡先を教えてください。

終了後は希望者で食事を考えています。お店は人数次第なこともあり、検討中ですが、翌日が月曜日なので終了はあまり遅くならないようにします。食事をしながら『セッション』の内容について語り合いましょう。

先週の企画でのバードマンは、僕は行けなかったのですが、なかなか好評だったようです。今回の映画もかなり期待されている映画なので楽しみですね。

以下は『セッション』の紹介です。

予告

あらすじ

【完璧】を求めるレッスンは常軌を逸し、加速していく―。

名門音楽大学に入学したニーマン(マイルズ・テラー)はフレッチャー(J・K・シモンズ)のバンドにスカウトされる。ここで成功すれば偉大な音楽家になるという野心は叶ったも同然。だが、待ち受けていたのは、天才を生み出すことに取りつかれたフレッチャーの常人には理解できない〈完璧〉を求める狂気のレッスンだった。浴びせられる罵声、仕掛けられる罠…。ニーマンの精神はじりじりと追い詰められていく。恋人、家族、人生さえも投げ打ち、フレッチャーが目指す極みへと這い上がろうともがくニーマン。しかし…。 ―公式サイトより

アカデミー賞 助演男優賞(J・K・シモンズ)・録音賞・編集賞の3部門受賞、作品賞・脚色賞ノミネート ゴールデン・グローブ賞 助演男優賞(J・K・シモンズ) サンダンス映画祭 グランプリ・観客賞 その他受賞多数

才能あふれる新入生ドラマーを鬼教師がしごいてしごいてしごきまくる、という内容。パンフレットや公式サイトでは”狂気”という表現が多用され、”音楽版ハートマン軍曹”という噂が聞こえてくるほどに過酷なレッスン描写が楽しみである。

監督・脚本のデミアン・チャゼルはこれが監督二作目らしく、まだ28歳と非常に若い。高校時代に名門バンドでジャズドラムをしていた時の、悪夢のようなスパルタ指導がアイディアのもとになっているとか。製作費獲得のためいったん18分の短編で作られ、それが絶賛されたために長編映画製作に至った。

正直なことを書くと、まだ作品が少ない監督の、これから観る(まだ観ていない)作品を紹介することは難しいので、これ以上書けることはないんですが、予告編から伝わってくる殺伐とした空気や、天才の扱い方、方々から聞こえる絶賛の評価等で、個人的に今一番期待している映画です。時間がある方はぜひ観に行きましょう。

 

【春新歓ブログリレー】『プリパラ』における「個性の肯定」と「多様性への寛容」について

ブログリレー“木曜日”担当の新川です。分量が増えたために遅くなってしまいました。申し訳ありません。

先週書いていたように今回はアニメ『プリパラ』について書きたいと思います。ものすごいアニメだったので皆さんに観てほしいのですが、この記事は紹介ではなく個人的な分析なのでもろにネタバレを含みます。注意してください。しかも、かなり無軌道に書きなぐってしまい、まとまりがないです。重要なのは最初の概要部分と後半のレオナとファルルについてなので、そこだけでも読んでほしいです(ネタバレはひどいですが)。分量からは、それだけの熱量を生み出す“何か”がある作品だと読み取ってもらえればそれでいいです。

あと、ここに書かれている内容は38話までの一期についてであり、現在放送中の39話以降の二期の描写等は一切考慮していません。

“なぜというに、自己をもつこと、自己であること、は人間に許されたる最大のこと(真実に無限なる許容)であり、同時に永遠が人間に対して要求するところなのだから。”―キェルケゴール『死に至る病』

『プリパラ』は“み~んなトモダチ!!み~んなアイドル!!”のコピーに代表されるように「友情の尊さ」と「個性の肯定」の2つが主題となっている。《トモチケ》システムに代表される「友情の尊さ」の方もストーリーの根幹となっており語るべきことはたくさんあるが、今回は「個性の肯定」とそこから見える「多様性への寛容」について述べていく。

『プリパラ』には、その中では姿を変えてアイドルとして活動できる仮想世界のような施設《プリパラ》が登場する(以後作品名を『プリパラ』、この作中にある仮想世界を《プリパラ》とする)。《プリパラ》は、その中では誰もがアイドルになれることを謳っており、“なりたい自分にプリパラチェンジ”というフレーズや、OPテーマの歌詞“オシャレなあの子マネするより自分らしさがいちばんでしょ”“夢はもう夢じゃない誰だって叶えられる”“ステージ上がれば誰だってアイドル”などのフレーズからもわかるように、自分がなりたい自分、ありたい姿(『プリパラ』における《アイドル》という言葉はこういった自己実現をしているものという意味も含んでいるように見える)になれる楽園として描かれている。

『プリパラ』はこの《プリパラ》の性質もあってか、各キャラクターにおける個性が、最初はコンプレックスであったものが長所となったり、受け入れられていなかったものを自分の一部と認めて統合したり、あるいは無条件で肯定されたりと、ありのままの自分であることが素晴らしいという描き方をされている。しかもそれは、ただ自分だけが自分を認めるといった肯定のされ方ではなく、ライブの観客やアイドルのファン、クラスメイトといった“社会”も承認してくれる、承認するのが当たり前という形になっている。特に『プリパラ』では、後述するレオナとファルルという極めて特殊な個性を持つキャラクターさえも、自然にその個性が本人にも周囲の人間にも肯定されており、明らかに先進的な多様性への寛容を持った社会が描かれている、新しい価値観を提示する2010年代のアニメであるといえる。

コンプレックスの長所への転換による個性の肯定については、主人公の真中らぁらと準レギュラーの栃乙女ラブのエピソードが印象的である。らぁらはアイドルにあこがれる小学生だが、母親譲りの大きな声がコンプレックスで、音楽の時間などで歌うときだけは委縮してしまい逆に小さな声になってしまう子であった。しかし、彼女は1話で偶然《プリパラ》のステージで歌うことになってしまう。直前まで自分には無理だというらぁらに対し、ライブのパートナーであるみれぃは「プリパラが好きなら大丈夫」といったことや「世界中に向かって届くように思いっきり歌うぷり!(ぷりはみれぃのキャラづくりのための語尾)ここではすべての女の子にそれが許されているぷり!」とらぁらに《プリパラ》がどんな場所かを伝え、結果らぁらは思いっきり歌い、その声は人の心の奥に響く伝説のプリズムボイスであることが発覚する。2話では、らぁらの小学校では勝手に《プリパラ》に行くと《プリパラ》嫌いの校長によって罰があるという噂が流れているにもかかわらず、らぁらはみれぃとの約束を守るために《プリパラ》に向かうのであるが、この時、《プリパラ》で思いっきり歌えたことを思い出しており、「あたし行く……行かなきゃ!行きたい!」といって駆け出していることからも、明らかに彼女は約束以上に自分の声が肯定される場所である《プリパラ》を求めていたのである。この回ではライブ終了後観客のとある女の子に「素敵な歌をありがとう」と言われ、らぁらは歌うのを楽しいと思えるようになる。完全にコンプレックスが長所へと変わり、自身の個性を認められることで、自己実現へと踏み出せたのである。

栃乙女ラブは、4話でらぁらのファンの子の部活でのテニスの試合相手として登場したキャラクターであり、成人男性以上の身長と短い髪が特徴である。彼女は10話で再登場した際、「試合しているときは怖いけど、普段はすっごくかわいい」子としてらぁらたちに紹介される。だが彼女は「だって私こんなに背が高くて肩幅も広いし、プリパラに行ったってきっと浮いちゃうだけ」といってプリパラデビューできずにいた。しかし、らぁらが自分の声のことを例にして励まし、彼女は恐る恐るであるがプリパラデビューすることになる。そこで彼女は自分の体格を「素敵なプロポーション」「スーパーモデルのバランス」などと褒められる。《プリパラ》の内部でのクールビューティーな自分の姿を見た際には「これが私!?」と驚き、泣きながら「すごいわ!生まれ変わった気分!背が高くてもかわいくなれるのね!」と喜ぶのである。その後も、周囲の女の子たちに背の高さを憧れとされ、ナンパにテンパってテニスの際の人格という素が出てしまった時でさえ周囲はそれをほめそやすのである。これもまた、コンプレックスがそのまま長所として認められること、偽らない自分でも認めてもらえるということが描かれる場面である。

この二人の例で重要なのは、自分を別人にしてしまうただの変身ではなく、欠点だと思っていたものはそのままの変身であるのに(実際、明らかに身長は《プリパラ》内では変更できることが本編の描写から読み取れる)、それが長所として周囲の人間に認められていることである。《プリパラ》は少女を変身させるのに、それは別人とはならずあくまで自分であり、自分のまま自分の個性を肯定される。《プリパラ》はありのままの自分が肯定され、自信を取り戻すことのできる場所となっているのである。

長所になるというよりは、ある個性を自分の一部であることを認め、人格的に統合されることによって自分が肯定される例もあった。北条そふぃと南みれぃの場合がそれである。

北条そふぃはクールで完璧な天才アイドルとして皆の憧れの的であるが、実はそれは梅干を食べて一時的にシャッキリしただけの姿であり、普段の本当のそふぃは体力がないためにへにゃへにゃしており、メイクも髪のセットも、《プリパラ》に行くことさえ一人ではできない状態であり(ファンシーモードと呼ばれる)、姉のコスモや熱狂的ファンのそふぃ親衛隊がその面倒を見ながら、人前ではファンシーモードを隠している。そふぃはファンシーモード見せてはファンの心が離れてしまうというマネージャーのウサギの言葉を信じ込んでおり、「みんなはステージの私だけが好き」と思っている。アイドルのそふぃとファンジーモードのそふぃが分裂している様子は9話での鏡に映った姿などでかなり深刻に描かれている。しかし、偶然ファンシーモードの正体を知ってしまったらぁらとみれぃはファンシーモードもかわいいと肯定する。じかし、ただ自分の出世のためにそふぃを利用しようとするマネージャーのウサギ、正体を隠すことがそふぃの幸せにつながると信じている親衛隊、そふぃを甘やかすあまり自主性を認めてあげることができないコスモによって、そふぃは言いなりになることを拒めず、ステージの上での完璧なアイドルの姿という籠の中に閉じ込められてしまう。だが、籠から出ようとするそふぃのライブ演出に気が付いたらぁらはそふぃを救い出そうと奮闘し、その姿に親衛隊は心を動かされ、「普段の姿も割と好きでした」と告白し「私たちの本当のアイドルになってください」といってらぁらたちとユニットを組むように助ける。ファンシーモードのまま、自分の力でらぁらたちが待つ場所へたどり着き、自分でらぁらたちと組むことを選んだそふぃは、「私の大好きなプリパラ」の世界を思い出す。その後、そふぃは何事も可能な限り自分の力でやるようになり、髪のセットも自分でするようになる。その髪は最終回まで常に一本だけはねているが、それでもそれはアイドルのそふぃの姿であり、らぁらたちはその姿をほめる。この「一本だけはねてはいるがアイドル十分セットできている髪」の姿は、アイドルのそふぃとファンシーモードのそふぃが一個の人間に統合された象徴であり、そして、そうしてできたありのままでもアイドルの自分は、みんなが認めてくれるものなのである。

そふぃにおいては、皆に求められていないと思われていたありのままの自分も、そのままアイドルになれるという肯定によって人格が統合されたが、南みれぃの場合は全く別の統合のされ方がなされる。
南みれぃは、学校では厳格な風紀委員長(以下委員長)であるが、《プリパラ》では「ぷり」という語尾を使うポップでキュートなキャラ(以下みれぃ)を演じている。みれぃはアイドルとして人気をとるために計算によって作り上げたキャラクターであり、あくまでも自分ではなく演じているキャラクターである。それは3話でみれぃの正体が委員長だとらぁらに知られたときのやり取りで顕著に表れている。正直に私の感想を言えば、はたから見るとみれぃはかなり恥ずかしいキャラクターであり、それが堅物の委員長であったことはかなり衝撃的であったのだが、委員長は全く恥じることなく自分がみれぃであることを説明をする。つまり、作り上げたキャラクターは自分ではないからそのキャラクターがどんな存在であっても恥ずかしくないのである。その後の委員長の「(自分がみれぃであることを)一人ぐらいには本音を言えば気づかれたい」という発言も、本当は本物の偽らない自分である委員長がアイドルとして評価されてほしいという感情を裏付けているように感じる。問題は32話である。32話「みれぃ、ぷりやめるってよ」では、そのタイトルの通り、南みれぃが《プリパラ》内でも委員長のままアイドルであろうとする話である。「人気が出るようにと作り上げたキャラクターでありのままの存在に勝つと考えるのは甘かった」という考えに至った委員長は、素の自分でこそ全身全霊の力を発揮できると考えぷりを捨て、姿も現実と変わらないものにしてしまう。しかし、その後委員長は謎の不調によって現実世界でも《プリパラ》でも実力を発揮できなくなってしまう。しかし両方の南みれぃをずっと見守り続けてきた風紀委員の雨宮が、バレンタインに「ありのままの僕を受け取ってください」とメガネを外したのちに不細工な出来の手作りチョコを委員長に渡し、不調の原因を「すでに一心同体となったものを無理に捨てたため心のバランスが崩れたから」として、「ぷりのままで!」と言い放ったのちに、委員長がいつも行ってきた校則違反の指摘をまね、「私立パプリカ学園校則第一条“生徒は自分に自信を持たなければならない 甘さも厳しさもすべて自分なのだから”」ということで、南みれぃに委員長とみれぃがすでに一つの存在であることを教える。そして、その光景を見ていた全校生徒たちも、「ぷりのままで」の声をあげ、南みれぃの二面性そのものを南みれぃの個性として認め、肯定するのである。こうして彼女は風紀委員長である自分とアイドルである自分を別々のまま一つの自分の内面として統合し、アイドルとしての自信を取り戻したのである。自分の外部であったみれぃがアイドルとして活動するうちに内面化されるもそれを認めきれていない過程は、32話までの途中で描かれており、たとえば先ほど述べたように3話では正体の説明になんの恥ずかしさも感じていなかった委員長だが、9話や18話で正体を説明する際には赤面している。これはみれぃがいつの間にか自分の内面になったことで、自分が恥ずかしいキャラクターであることを無意識的に感じている描写であり、32話に至るための巧妙な伏線であった。

ここまでにあげた例は、これまでも様々な作品で描かれてきたような形の個性の肯定であり、特にこれからアイデンティティを確立していく女児をメインターゲットにしたアニメでは、特段珍しかったり新しかったりするものではないと思われる。しかし、次から述べるレオナとファルルという極めて特殊な個性の持ち主が、その個性をほとんど無条件で社会から承認される描写たちは、多くの視聴者を驚かし感動させ、このアニメを完全にオリジナルで新しい傑作へと昇華させたといっても過言ではない。

12話から登場したレオナ・ウェストは、ピンク色の髪でおとなしくて引っ込み思案な性格をしており、水色の髪で男の子っぽい言動が多く一人称がボクの双子の姉ドロシー・ウェストとは対照的な人物として描かれている。レオナは「たおやか」という形容詞が最もふさわしく、作中では最も古典的な女性らしさを持ったキャラクターである。しかし、18話冒頭でレオナとドロシーがらぁらたちの学校に転校してきたため、レオナが実は男性であったということが発覚する。このとき、その場にいた主人公たちは(そふぃを除いて)全員が予想だにしなかった事実に驚愕する。しかし、その後のやり取りと話の展開は過去例を見なかったものになる。らぁらが純粋な疑問から発した「どうして男の子なのに女の子の服を着ているのか?」「そもそも男の子はプリパラに行けるのか?」といった質問に対して「双子のドロシーといつも一緒だから」「プリチケが届いたから」と答えただけで全員が即座に納得し、それ以降性別については特に気にもかけないのである。またこのとき、“プリパラ憲章第12条「プリパラはプリチケさえ届いていれば何人もプリパラに出入りしていい」”というセリフが登場し、明確に《プリパラ》があらゆる人間や個性を認める場所であることが示される。クラスでのレオナの自己紹介でも、クラスメイト全員が一瞬でそういう人間なのだと納得し、18話はそれ以降レオナの性別の話は一切せず、レオナの主体性のなさや姉への依存が問題になって話が進んでいく。なお、ドロシーのクラスでの自己紹介では一人だけ女であるドロシーがボクという一人称を使うことは変だと言った生徒がいたが、30秒もしないうちに意見を改めている。唯一、大神田校長だけがレオナの性別について受け止めきれず否定的発言をしているが、この時点での大神田校長は《プリパラ》を絶対的に悪とみなしている人間であることを忘れてはいけない。この回でレオナは、幼稚園児になつかれる母性の持ち主であることが描かれたかと思えば、その次の場面では、木に登って引っかかった風船を取ってあげるという男らしさ(男子っぽさ)の持ち主とも描かれている。このとき周りの人物は、凡百のアニメのようにその女らしさや男らしさを囃し立てるのではなく、人の役に立つのが好きなレオナの性格とそれができる能力そのものを評価する。つまり、ジェンダーがどうこうの類型的な人間観ではなく、あくまでも、ただたくさんのいいところを持つレオナ個人そのものをありのままに認め評価しているのである。この古臭い性別意識が全く存在しないかのような空気は、後の34話で、誰も直せなかった壊れたおもちゃのロボットを、レオナが何の前触れもなく当たり前のように花柄のついた工具を取り出して直した際でも見られる。典型的な男の子っぽさや女の子っぽさを発揮しても、誰も性別的なことには言及せず一人の人間を見ているのである。レオナは結局、性自認も性嗜好もあいまいで、性別について言及されることはほとんどないまま一期最終回を迎えた。ここに、安易なカテゴリー分けではなく、個人の人間性そのものを認め肯定しようという多様性に寛容な新しい価値観の強いメッセージを感じる視聴者は少なくないはずである。

このように、レオナでは現在の社会で議論になっているような新しい価値観や多様性の受容について描かれていたが、これは性別のあいまいさよりもはるかに異質な個性を持つファルルがその異質さまで含めて全面的に肯定される最終回をもって、あらゆる異質なものを個性として認め、肯定し社会的にも承認を与える究極の寛容となる。

ファルルは、女の子たちのトップアイドルになりたいという願いから《プリパラ》のシステムの中で自然発生的に生まれた人工知能のような存在のアイドルである。ファルルは、機械のように完璧なパフォーマンスと、『プリパラ』での個性の象徴である口調などのコピーによって、マネーシャーのユニコンに従って、神アイドルとなるべく生まれた自分を全うしようとするが、らぁらたちとの交流によって芽生えた自我と感情、そして「神アイドルとなる存在に必要なのは友達ではなくファン」であるためにらぁらとの友情がバグとなって機能を停止してしまう。しかし、その後にとある奇跡によって《普通の女の子》として復活する。このファルルの復活までの話は『プリパラ』における主題「友情の尊さ」の極限であるが、もうひとつの主題である「個性の肯定」の極限はその復活後の《普通の女の子》となったファルルによって描かれる。復活後のファルルは、姿が変わり、しゃべり方も表情も感情表現も人間と区別できない自然なものとなったが、逆にコピー能力は失っており、「普通の女の子になった」と明言されている。しかし実際には、ケーキを食べてしょっぱいと言ったり、アツアツのもんじゃを冷たいと感じるなど、明らかに普通の人間とは全く異なる感覚を持っている描写がある。また、ファルルは、機能停止に陥る前の自我が生まれるかどうかの境界にあったとき、らぁらの妹のんを紹介され、「妹とは何か?」という質問を発し、それにらぁらが「小さいけど結構重たくって」「かわいい」などと答えたために、おもちゃのロボットを「ファルルののん」といってかわいがっていた。これはファルルが、自分がロボットのような存在だと自覚しており、自分と似た存在としておもちゃのロボットを選び取ったというある種のグロテスクさとファルルという存在の根本的な異質さを感じさせる象徴的場面であったが、この「ファルルののん」はファルルが《普通の女の子》になった後も「ファルルののん」として当たり前に妹のようにかわいがられているのである。これらの描写からは、復活後のファルルも、その本質の多くの部分が人間とは全く違う異質な存在のままであることが読み取れる。しかし、そんな異質な存在さえも、誰のまねでもなく自分だけの存在である限り、『プリパラ』では明確に《普通の女の子》と断言され、誰もが何の違和感も感じずにそういう存在としてファルルと分け隔てなく接するのである。そして最後、ファルルは「別のプリパラ」へと旅立つのであるが、ここで仮想世界しか知らなかったファルルが現実世界に踏み出すような安易な結末ではなく(恥ずかしながら私はそれを予想していた)、過度に我々が住む世界の価値観を一般化せずに、《プリパラ》の中で生まれたというその異質な生い立ちさえも全面的に肯定し、彼女にとってのもともとの世界をそのまま広げて、彼女に彼女だけの彼女らしい成長の余地を認め、どこまでも彼女の存在そのものを尊敬した結末を迎えた。

ファルルにおいて肯定された個性は、明らかに人間とは全く違う存在であるという異質さであった。このような仮想的で未来的な個性までも当然のごとく肯定してしまう究極的な「多様性への寛容」は、これからより複雑・多様化する個人と社会に現われるであろう誰も予想しえなかった価値観や個性についても、その新しさや異質さを受け入れて、一個の存在をありのままの姿で評価することのできる人間と、その人間たちが作り出した誰もが自己実現を果たせる(み~んなアイドル!!)新たな世界の可能性を描き出しているのではないだろうか。少なくとも私は、この作品で描かれたお互いのありのままを認め合う世界に感動し、この記事を書くに至っている。

今回は『プリパラ』の主軸となっている2つのテーマのさらに1つについてしか述べていないが、他にも、もう一つのテーマ「友情の尊さ」から作られたストーリの本筋も、数々のハチャメチャでふざけているが作りこまれた設定・描写・展開・台詞、かわいらしかったりイカれていたりするが魅力的なキャラクターたちとその関係性、仮想世界・人工知能周りのSF性(特に、姿も名前も自由にできるため、口癖やキャラクター性で自分を定義することが必要になる世界において、完璧なコピーができるファルルの登場にアイデンティティが揺らぐ描写はサイバー系SFとして評価が高い)、ファルルの持つキリスト教的モチーフ、タツノコの高いCG技術によるライブ映像などの見どころもたくさんある2010年代指折りの傑作アニメなのでみんな観ましょう。

あと、こんな記事をブログにのっける人間がいる程度にはこのサークルも多様性に寛容ですのでどんな個性の新入生でもぜひ新歓に。

【春新歓ブログリレー】ビラ配りの後に

みなさんこんばんは、木曜日担当新川です。今さらですが、読み方は”にいかわ”です。

今日はとあるアニメについて書こうと考えていたのですが、ちょっと資料を集めきれなかったので来週にしようと思います。ちなみにですが、僕はアニメから実写に興味を広げて映画研究会に入ったクチなので、映画よりもアニメについて語っていることが多いです。

 

というわけで、今回はとりとめもなく最近の映画研究会での活動について述べて、当団体の雰囲気を伝えることにしようと思います。

さて、昨日今日と我々はビラ配りを行っていました。昨日今日と健康診断に来ていた新入生は案山子のような何かを担いでいた団体を目撃したかもしれません。その辺は少し前の番場や平のブログを参考にしてください。明日も配ります。映画研究会の案山子や看板を持っている人間は間違いなく部員なので、どんな人がいるのか見に来てみる、話しかけてみるのもいいかもしれません。このブログにあるメンバーのページは、もう学年の更新をしている人とまだしていない人がいるので注意してください。

 

今回語りたいのはビラ配りそのもののことではなく、その合間合間の話です。ビラを配ったあと部室に撤収するのですが、そこで作業があったり、別のプロジェクトの用事まで時間があったり、あるいは何もないために、部員はすぐには解散せず、雑談したり映画を観たりしています。

たとえば昨日は『トータル・リコール』をげらげら笑いながら観ていました。シュワちゃんの浮きっぷりや明らかにおかしな描写・展開に突っ込んだり、お気に入りのシーンではしゃいだりと楽しんでいました。序盤の展開は寺沢武一の漫画『コブラ』でほぼそのままオマージュされていますね。もっとも、映画の公開時期と漫画の連載時期を考えるとフィリップ・K・ディックの原作小説の方が元みたいですが。その後は時間の都合で一部だけでしたが、2012年版の『トータル・リコール』を観ていました。ブレードランナーみたいなオリエンタル趣味の街並みや、埋め込み式の携帯電話など、サイバーパンク風のSF描写がかなり魅力的に見えたので、単体で普通に楽しめそうです。そのうち観ます。

今日は、今やっている映画や公開が近い映画について雑談をしていました。先々週僕が(一応)言及した『イミテーション・ゲーム』の話もしましたね。公開が近い映画の話については、4・5月に新入生と一緒に映画を観に行く企画もあります。何を観に行くのかはこの場で発表していいのかわからないので書きませんが、期待しておいてください。あとは、『マッドマックス 怒りのデスロード』の予告編をみんなで観たりしていました。明らかに異常で正気の沙汰ではない映像の数々に大盛り上がりでした。楽しみな映画について情報交換をするのはワクワクしますね。

というわけで、一応このサークルは映画を撮るサークルではあるのですが、それ以前に映画について楽しく語らうサークルであるという雰囲気が伝わっていれば幸いです。

あと、ここに書いた話題の内容は、僕のフィルターを通したことにより趣味が偏っている可能性がありますが、部員全体では非常に趣味が広いので安心してください。

【春新歓ブログリレー】『プレデター』

こんばんは、ブログリレー木曜日担当の新川です。

去年のブログリレー企画ではみんなが好き勝手に書いていたので、先週は好き勝手に書いたのですが、今回はなぜか皆が皆映研の紹介をちゃんとやっていたため僕の記事が完全に浮いてしまい、「貴様ら俺を嵌めやがったな!!!」などと絶叫しながら握りしめた拳をキーボードにたたきつけていました。なので今回はおとなしく映画の話をします。

 

さて、というわけで本題に入りますが、今回は映画『プレデター』の話をしたいと思います。

プレデター(原題:Predator)

1987年アメリカ

監督 ジョン・マクティアナン

脚本 ジム・トーマス、ジョン・トーマス

音楽 アラン・シルヴェストリ

撮影 ドナルド・マカルパイン

主演 アーノルド・シュワルツェネッガー

あらすじ 南米バル・ベルデで行方を絶った重要人物奪還のためにジャングルに潜入する特殊コマンド部隊。だがゲリラを掃討した彼らを待ち受けていたのは宇宙から飛来した異星人プレデターだった。体を透明化させて周囲の風景に溶け込み、どこからともなく牙を向くプレデターに隊員たちは次々に倒されていく……

『ダイ・ハード』のジョン・マクティアナン監督、『ターミネーター』『コマンドー』のアーノルド・シュワルツェネッガー主演のSFアクション映画。余談ですが、架空の国家である”バル・ベルデ”はダイ・ハード2やコマンドーでも名前が出ています。個人的に大好きな映画なのですが、ある日一緒に観た部員に「最高だったろ!?」と興奮気味に聞いたところ渋い顔をされたので、どこが最高なのかを書いていこうと思います。ネタバレを含みますが、まあそういうのを気にする映画ではないので大丈夫です。

『プレデター2』、『プレデターズ』といった続編、『エイリアンVSプレデター』シリーズといった派生作品があり、名前を知っている人は多いと思いますが、意外と実際に観たことのある人は少ない作品の一つだと思います。長く続いたシリーズの最初の作品というのは、たいてい独特の魅力があるものなので積極的に観ましょう。

さて、肝心の『プレデター』の魅力ですが、まず一つに筋肉映画であるということです。主演の時点で予想がついていると思いますが、この作品は基本的には「シュワちゃんのアクション映画」です。まず冒頭、現在は軍を退役しCIA職員である戦友のディロン(カール・ウェザーズ)と再会した主人公ダッチ(シュワルツェネッガー)は、握手と同時に腕相撲を始めます。執拗にはさまれる隆起した上腕二頭筋のカットに、繰り出される小粋なセリフは強いアメリカ人そのものです。特に吹き替えの小粋な台詞回しや下品なジョークは、部隊の隊員たちのキャラを立たせるだけでなく、プレデターがそれを録音して使うにことよって大きな要素の一つになっています。中盤、ゲリラを制圧する際も、わざわざトラックを持ち上げたり、コマンドーめいた投擲で敵を倒したりと、筋肉ゆえの強さを披露します。また、ずっと熱帯のジャングルが舞台であるにもかかわらず、ダッチは映画が進むにつれてなぜか少しずつ服が脱げていき、終盤は(泥が塗られてはいるが)常に上半身裸です。プレデターに襲われて装備を失う前から、気が付くとどんどん上を脱いでいきます。

次に、プレデターというとてもユニークなキャラクターが魅力の一つとして挙げられます。エイリアンのような獰猛な未知の怪物でも、圧倒的技術力によってUFOのような兵器を操る宇宙人でもなく、人類よりはるかに高い技術力を持ちながらも、狩りを楽しみ、屈強な体格で白兵戦を好む野蛮な文化という斬新な宇宙人像は非常に面白いです。弱いものは狩りの対象から外したり、強い戦士に対しては刃物による近接格闘で敬意を示したり、ラストの録音したセリフのおうむ返しや不敵な笑いと自爆など、独特の価値観も魅力の一つです。造形としては、西洋甲冑のような仮面、アフリカの原住部族のようなアクセサリー、日本の武者を彷彿とさせる頭部など、世界中の”戦士”のイメージをうまく取り入れた部分が素敵です。

そして個人的に好きな部分に、随所で見られる”立場の逆転”が生み出す絶望感やカタルシスといった構造があります。序盤から中盤にかけて、ダッチ率いる特殊部隊は常に確かな実力とそれに伴う自信・余裕がみられ、ゲリラの基地をかなり一方的に制圧する、まさに精鋭部隊であり、”狩る側”でした。ところが、正体不明の姿が見えない謎の生物に、一人また一人と殺され始めると彼らは取り乱し、闇雲に打ちまくるような”狩られる側”の獲物になってしまうのです。前半に強さを強調したからこそ、強者という立場を追われたときに恐怖と絶望が増すのです。これは、基本的に絶対的強者として描かれるシュワルツェネッガーを起用していることによっても起こっています。前述したように、序盤はシュワちゃんのアクション映画なのですが、だからこそ、強者であるシュワルツェネッガーが、圧倒的力に太刀打ちできずに追い詰められたり、鍛え上げられた肉体が最大の個性の人間が片手で持ち上げられることによって、プレデターの強さと絶望感が増すのです。また逆に、姿が見えないプレデターに対して、恐怖で闇雲に撃ちまくるしかなかった場面があったことによって、泥を全身に塗ったダッチを見ることができないプレデターが闇雲にプラズマキャノンを撃ちまくるシーンでカタルシスが生まれるのです。

というわけで、とりあえずまだ観ていない人は『プレデター』を観ましょう。きっと楽しめるはずです。

【春新歓ブログリレー】人間の非対称性

こんにちは。春新歓ブログリレー、木曜日担当の新川です。春休みの間は主に部屋で腐っていました。

なぜかまだ誰もこの企画では映画の話をしていませんが、僕も今回は別に映画の話というわけではなく、最近見かけり考えたりした色々なものを題材に、最近個人的に興味がわいた非対称性についてとりとめもなく書き連ねているだけです。この間観た『シャークネード カテゴリー2』について書こうとも思いましたが、よくよく考えるとわざわざ文章して語る内容ではないのでやめました。、まあ、色々なものへの興味が許容される雰囲気のサークルだということがわかってくれれば幸いです。

さて、僕は今『精神病者は何を創造したのか―アウトサイダー・アート/アール・ブリュットの原点―』という本を読んでいるのですが、この本の中で造形的創作の心理学上の基礎としてリズムや規則という”秩序への傾向”について語られる個所があります。この傾向は、並列や規則正しい変化、シンメトリー、比例関係といった、数字と数量、そしてその数学的関係に還元される秩序の原則への傾向とも言え、それは脈拍や呼吸、歩行のリズム、左右対称の人体構成、均整の取れた四肢といった人間の体格と動きで基礎づけられたものと、結晶や植物の持つ対称性、昼夜の交替、潮の干満、季節の巡りといった世界の法則によって見出されるものに分けられる、といったような内容から論を展開していきます。映画の構図やカットなどでも、容易にある種の幾何学的秩序への傾向が見いだせることが多いでしょう。

まあ、そういった内容はさておき、個人的には”左右対称の人体構成”という記述に違和感を覚えました。この本の筆者は精神科医なので、おそらくわかったうえで外観について単純化しただけなのでしょうが、人体は別に左右対称ではありません。利き腕や脳機能の局在性といった機能的部分のみでなく、形態的にも左右は非対称です。脾臓や肝臓のように左右どちらかにしかない臓器や、一本の管が曲がりくねることによってできる消化管はもちろんですが、肺や腎臓のような左右に1つずつの臓器でもその位置や形状は左右で違っています(肺は左右で裂の数が異なる、腎臓は右のほうがやや低い位置にあるなど)。男性諸君は、睾丸は多くの場合左のほうが下にあるといった話を聞いたことがあるのではないでしょうか。また、それに合わせて脈管にも左右差があります。正中を走る大きな血管でさえ、基本的ににどちらかによっています。具体例を挙げるときりがないのですが、とにかく人体の内部は全くと言ってよいほど左右対称ではありません。逆に、ここまで左右非対称な構成をしているものが、ガワだけでもかなり左右対称に見えることに驚くべきなのかもしれません。余談ですが、僕は左右の手で親指の長さと形が全く異なります。利き手のほうが短いので不便です。あと、左右で髭の生え方が違うので安易に蓄えられません。

また、人間は左右はある程度対称に見えるかもしれませんが、上下は全く対称的ではありません。少し前にこのことについて興味深い話を聞きました。それは多くの人間は鏡を見た際に左右が反転していると感じるが、別に反転するのは上下でも変わらないというものです。みなさんご存知のように鏡に映った像の座標は鏡の面と垂直な奥行の軸のみが反転されていて、左右も上下も反転されてはいません。しかし、普通に物体を回転移動させて奥行の軸を反転に合わせると、もう一軸反転してしまいます。つまり、普通に回転移動させると奥行ともう一軸が反転するはずなのに、鏡像は奥行の一軸しか反転してないので、左右軸がもう一回反転しているととらえることで帳尻を合わせているのです。またこの場合、帳尻を合わせる場合にもう一度反転させるのは上下軸でも別に構わないはずなのです。しかし人間は、頭が下になっているはずの像が上下反転しているとはとらえずに、左右が逆になっているはずの像が左右反転しているととらえてしまいます。これは人体の左右の対称性と上下の非対称性、重力によって作られる天地の認識に縛られるためです。つまり、人間は水平的には対称で、上下には非対称という、軸ごとに非対称的な認識を持った世界観の中で生きているということなのです。

人間の非対称性の形成について興味を持っていた有名で意外な人物にアラン・チューリングがいます。彼は、球体という完全な対称性を持った受精卵から、体軸が形成されるという自発的な対称性の破れ(物理学の方のは門外漢の僕には全く分からないです)がなぜ起きるのかということに興味を持っていました。体軸の形成は化学物質の拡散による濃度勾配によって引き起こされる現象なのですが、彼は均一な状態が拡散の効果によってかえって不安定化しやすいということを示しました(チューリング不安定性)。これによってチューリングパターンと呼ばれる縞模様が形成されることが知られていますが、これはある種の熱帯魚の模様の形成の説明に用いられています。こういった反応拡散現象はシマウマの縞模様などのパターン形成にも関係しているといわれています。

こういったある種のパターン形成が起きる化学反応系の一つにベルーゾフ・ジャボチンスキー反応というものがあります。これは化学反応が平衡へ向かう過程で周期的な振動を起こして、反応液にパターンを形成するというものですが、回転するらせん波のパターンが形成されることもあります。ねじの右巻き左巻きのようにらせんには非対称性があります。つまり、この系では非対称的なパターンが形成されるということです。らせんが非対称性を持つために面白い性質を持つ物質としてヘリセンがあります。ヘリセンは芳香環がらせん状につながった分子構造をしており、不斉炭素がないのにキラリティを持ちます。また有機化合物の光学異性体については、生体でのアミノ酸のL型への偏りのような部分が個人的に興味深いです。

長々と書いて結局何が言いたかったかというと、チューリングを題材にした(ただし今回書いたこととは一切関係のない業績が主題の)映画『イミテーション・ゲーム/エニグマと天才数学者の秘密』が面白かったので、みんな観てくださいということです。

【秋新歓ブログリレー企画】ナチス最終兵器対ソ連兵(新川)

皆さん今晩は、2年の新川です。

今回は夏休み観た映画の紹介を兼ねて個人的な感想を二つ書こうと思います。なぜ10月も半ばといったところなのに夏休み、と思う方もいるかもしれませんが、これは、単に私の夏休みがとても長く、後期が先週ようやく始まったためまだ夏休み気分だというだけです。あと、多分にネタバレを含みます。

 

武器人間』 原題:Frankenstein’s Army 

2013年 オランダ・アメリカ・チェコ合作

監督:リチャード・ラーフォースト

「ナチス最終兵器、出撃!」

あらすじ:1945年、第二次世界大戦末期の東部戦線。ソ連の偵察部隊がある任務を帯び、ドイツの占領地域に足を踏み入れた。やがて古い教会を見つけた部隊は、そこ で何者かによる大虐殺が行われた形跡を目撃する。さらにその建物の地下には迷路のような通路が張り巡らされ、広大な研究室が隠されていた。その研究室こ そ、フランケンシュタイン博士の末裔が、死体と機械を合成し、不死身の改造人間を製造している大量破壊兵器工場だった…!! (公式サイトより)

予告のドラえもんの声で話題を呼んだアクション・ホラー。ちなみに吹き替え版の声優もなぜか新旧ドラえもんキャストが中心。機械と人体が融合した独特の怪物達が魅力。兵士の一人が手持ちカメラで撮影した映像という体のドキュメンタリータッチ。訳の分からない怪物と遭遇した際の混乱、いつ再び出会うかもしれないという恐怖と緊張感の演出として良かったと思うが、いかんせん肝心の武器人間が怖くない。緩慢で笑いを誘う動き、銃や手榴弾で割とあっさり撃退できる程度の強さ、カッコよさや愛嬌のある造形。特に、研究所でせっせと働く様子は可愛い。主人公たちは、おびえ、混乱し、仲間を失いながらも、必死で任務を果たし生き延びようとするのだが、はたから見ればふざけた状況(特に博士の登場後)であんな風に一生懸命なのは滑稽でしかなく、そこを笑う映画であるのかもしれない。博士は、典型的なマッドサイエンティストで、言葉を発するたびに笑ってしまう。もろもろの要素によって”武器人間が出てくるまでが怖い”というよくわからないことになってしまっている。たのしい。ちなみに、公式サイトに”武器人間図鑑”があり、説明が面白い。個人的にはポッドマンが可愛いので一番好き。

 

『ヒトラー最終兵器』 原題:Outpost: Rise of the Spetsnaz

2013年 イギリス

監督:キアラン・パーカー

「ヒトラーの落とし子(ナチス・ゾンビソルジャー)VSスターリンの犬(ソ連軍最強部隊)」

あらすじ:WW2末期の1945年3月。ドイツ軍占領地区のロシア森林地帯。百戦錬磨のドロコフ軍曹率いるソ連軍特殊部隊(スぺツナズ)はナチス軍との壮絶な戦いを 連日続けていた。ナチス部隊への奇襲後、ドロコフと彼の部隊は戦争の流れをも変えうる衝撃の調査結果を発見するが、任務遂行後の帰路、不運にもナチス部隊 に捕らえられてしまう。ナチスの実験施設である地下要塞に人質として捕らえられたドロコフと同僚のフョードルは、そこで狂気の科学者、クラウスナー博士の 姿を見掛ける。彼は親衛隊のストラッサー大佐と共に恐怖の実験を行っていた。その実験とは無敵のバイオ・ソルジャーを作り上げることだった。2人のロシア兵は狂気の施設 から脱出し、ナチス軍がヨーロッパ全土にバイオ・ソルジャーを解き放つ前に、恐ろしい実験を阻止するため戦う必要に迫られる。

90%はアクションシーンという触れ込みに相違なく、銃・手榴弾・ナイフ・鉄パイプ・素手など、多彩かつ迫力ある戦闘シーンがこれでもかと盛り込まれている。こちらの怪物はほとんどゾンビといった見た目で、行動や攻撃手段もほとんどゾンビ。不死身を売りにしているが、素手と鉄パイプでタコ殴りにされると普通に倒される。戦争をひっくり返すための不死身の生物兵器が、ボコボコに殴られてあえなくノックアウトされた時は目を疑い、腹を抱えて笑った。ドロコフ軍曹が恐ろしく強く、とっさの機転もあるが、その屈強な体格と筋力で不死身の兵士を拳で打倒し、問題を解決していくさまは実に気持ちがよい。その力任せな解決方法と無敵っぷりを楽しむ映画。つよい。かっこいい。たのしい。どうもシリーズものの一部らしく、博士や物語の根幹の計画に関してはよくわからなかったのが残念。

 

さて、明日はいよいよ秋新歓一日目です。このブログを読んでいる方で、映画が好き、映画についてもっとよく知りたい、映画を作りたい、ブログを書いていた人に会ってみたいという方、あるいは別の理由でも構いません。ぜひ足を運んでみてください。

【新歓ブログリレー企画】授業開始・新歓開始(新川)

どうも、木曜日担当新川です。そろそろ忘れてそうなのでもう一度書きますが、にいかわです。

さて、北大では今日から教養の授業が始まりましたね。一年生の方は初めての大学の授業に色々と面喰ったのではないでしょうか。私も訳あって今日は昼休みと5限には教養棟にいましたが、初々しい新入生を沢山見ました。まさに「フレッシュマン」って感じでしたね。いつまであんな感じでいられるのか見ものです。皆さんは大学生活によって心の弾力を失わないよう気を付けましょう。

明日はついに新歓の第一回ですね。映画に興味のある方、映画を語る相手がほしい方、映画を撮りたい方、映画に映りたい方、サークルに悩んでいる方、なんとなくこの記事に辿りついた方、暇な方、宇宙人・未来人・異世界人・超能力者は是非とも高等教育推進機構 E218にいらしてください。明日が駄目なら16日の水曜日にも、25日の金曜日にもやっているので、都合のいい日にどうぞ。

ちなみにですが、実は、僕は新歓に全部出ないで入会したので、新歓がどんな感じなのか、内容は知っていても空気感はよくわからないです。しかしまあ、仮に新歓を全部逃してもどうとでもなるということでもあるので、もし全部都合が悪くてもたぶん大丈夫ですよ。

【新歓ブログリレー企画】春休みとこれから(新川)

どうも、新川です。この一週間は帰省したり、増税前に本を買い込んだり、ビラ配りに参加したりといろいろありました。あと、『アナと雪の女王』も観に行きました。ちょっと雪のべたつき加減が足りない気もしましたが、きれいな映像と音楽で盛り上がるところはよかったですね。

 

さて、昨日今日あたりから北大では、授業やガイダンスの始まる学部が出始め、そろそろ新学期といった雰囲気になってきました。僕自身も明日は移行式の後、泊りがけでガイダンスです。5人だけの移行式とか、初対面の人たちといきなり泊りとか、正気の沙汰とは思えないです。何を考えているんでしょうね。

新学期が始まるということはつまり、春休みが終わってしまうということでもあります。ほぼ丸二か月間休みだったはずですが、総合理系の移行先の決定が遅かったせいか、あまりそんな感じがしないです。観たかった映画も、読みたかった本も、全然消費できていません。では、何か別のことをしていたのかというと、そういうわけでもなく、単に無為に時間を過ごしてしまっていたようです。良く言えばゆっくりできたということですが。

休みの中で観た映画で、ある意味印象に残ったのは『ゴースト・シャーク』ですね。サメの幽霊が襲ってくるというそのまんまな映画ですが、2013年制作とは思えないチープなCGと露骨なまでに繰り返される水着シーン、あほらしい展開が笑いを誘います。幽霊であることを活かして、海から離れた陸でもサメから逃げられないというのはちょっとひねったな、というくらいです。冒頭の、アタマ空っぽな釣り親子が激辛ソースでサメを攻撃したり、なぜか釣り用のボートに手榴弾があったりするところはゲラゲラ笑っていました。「そうゆうもの」として観れば楽しめる映画でした。もう2度と観ることはないと思います。

これからのことに話を移しますと、どうも僕はかなり忙しくなるらしく、今後は映研に顔を出せる機会も少なくなりそうです。新歓関係の行事にはおそらくいると思いますので、映研に入りたいという方で、レアキャラ化を予定している僕と会っておきたいという方は是非新歓に参加してください。僕なんかよりずっと魅力的な部員ばかりですが。

【新歓ブログリレー企画】先週の金曜(新川)

どうも新川です。今日は髪を切らなければならない日でした。10ヵ月ぶりの散髪が僕に与えた影響は大きく、自分の耳の全貌を観たのがいつ以来か、記憶を遡ってもわからない始末です。未だ鏡を見てもそれが自分だという確信が持てません。それとも、髭を剃られた時に顔の形を変えられてしまったのでしょうか?

 

さて、先週の金曜のことです。伊藤計劃のSF小説『虐殺器官』と『ハーモニー』の劇場アニメ化が発表されました。後期の期末テスト期間に、ついハーモニーを一気読みしてしまった思い出のある僕はこの話を聞いたとき、衝撃のあまり”意識を失”い、”恍惚”な状態になってしまいました。虐殺器官にはあまりないですが、ハーモニーでは映像化にあたって、小さいことでは「トァン」とか「ミァハ」といった名前の発音がどうなるのかということ、大きなことではあの「etmlで定義されたテクストデータ」という小説ならではの形式をどうするのかということが非常に気になります。ひとまず、映像という全く違う媒体でどうなるのか、期待して待つことにします。

ところで、伊藤計劃は大の映画好きで、生前運営していたブログではよく映画の評論をしていたことが知られています。その映画評の一部は―賛否ありますが―書籍化もされています。その影響なのか、虐殺器官の主人公クラヴィス・シェパードは少し昔の映画好き(作品の舞台は近未来)であり、本編でも何度か実在の映画に対して言及がありました。僕が気が付いた範囲では、直接題名が出たものでは、『2001年宇宙の旅』『エンゼル・ハート』『キャリー』『プライベート・ライアン』『パルプ・フィクション』『太陽の帝国』『初体験/リッジ・モンドハイ』『マッドマックス』『世界残酷物語』、題名は出ないが固有名詞等でわかるものでは、『地獄の黙示録』『ガントレット』『モンティ・パイソン・アンド・ホーリー・グレイル』がありました。まだ観ていないものはそのうち観ようと思います。映画以外から映画に興味を持った自分は、どうしてもこういったところからの出会いが多い気がしますね。まだ純粋に映画と向き合えていない気がします。

 

そういえば、映研がどんなサークルなのかを紹介するCM4つが、今日このホームページ上に乗せられたようです。この記事を読んでいる方は是非、ブラウザを閉じる前にそちらもご覧ください。僕も今から観ます。ちなみにですが、その更新が影響したのか、僕がこの記事を書いている最中に一度ログインが解除され面倒くさい目にあいました。

【新歓ブログリレー企画】音声な自分(新川)

どうも、一週間ぶりですね。木曜日担当の新川です。番場の記事の写真で無理な姿勢で音をとってる男です。相当髪が長いですが新歓の頃には切っていると思います。

 

さて、写真に撮られた自分をみて気が付きましたが、僕が撮影に参加するときは大抵、音声として参加しています。これは別に、僕が音声に詳しいとか、録音狂いであるとかいうわけではなく、単に録音機材の使い方をある程度習っているというだけです。というのも、僕が映研に入ってすぐ、チーム制作というものをやりました(今年もやるのでしょうか)。これは、新部員への機材の使い方や撮影方法の教育もかねて、部員をいくつかの班に分けて、それぞれ1本ずつ作品を作るものです。このときに、僕は音声をまかされ、以後、たびたび駆り出されているというわけです。裏方ではありますが必要な役割でもあり、個人的には楽しんでやっています。

このチーム制作では、新部員の教育も目的なので、基本的に新部員が中心になって、先輩方に全面的に支えられながら作品を作ることになります。脚本兼監督が一年生のこともあります。基本的に新部員がやりたいことは尊重されます。先輩方は、頼りがいのある方ばかりで非常に勉強になり、全くの素人の初めての撮影でもまあなんとかなります。僕としては、勉強しながらもいろいろと意見を出し合い、協力して作品を作り上げるのはとても面白いものでした。また、入部して日が浅くても、一本作るうちに自然と部員との交流が深まっていきます。

 

とまあ、映画作りに興味があるけど知識がない人とか、サークルに上手く溶け込めるだろうかという不安がある人も心配のいらないサークルですので、ぜひ一度新歓にお越しください。待っています。