2025年度 ブログリレー #14

*今回のブログ記事は前回の記事(https://hucinema.com/blog/6208)の続きです。まだ読んでいない方はそちらを先に読んでみてください。

映研三年の中嶋です。今回は『神々の深き欲望』に対する僕なりの解釈を書いていきます。この作品は次回語る二作を語る上で土台になる映画です。

 

この映画のクラゲ島は今村プロが実際に南西の島でセットを組んで撮影したそうで、この映画で今村プロは撮影費用を使いすぎてしばらく作品が取れなかったそうです。撮影もかなり過酷なもので、その様子はまるで地獄のようだったと様々な人が語っています。(この映画の撮影裏話も本編に匹敵するほど非常に面白いエピソードが揃っています。詳しくはウィキペディアの概要を読んでみてください。)

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E3%80%85%E3%81%AE%E6%B7%B1%E3%81%8D%E6%AC%B2%E6%9C%9B

この映画でのクラゲ島は今村リアリズムによって良く言えば“大自然と共生する神秘的な集落”として、悪く言えば“文明化されておらず因習が残った貧乏くさくて汚い田舎”として映されます。観客(公開当時でも今現在でも)はそう言った描写を観て、“自分たちとは隔絶された存在”としてクラゲ島とその集落を内心見下しながら観ることになります。

そして映画前半では、そんな観客の気持ちを代弁する存在として北村和夫演じる“技師さん”が登場します。彼は村長の竜に連れられ、村を回ることになるのですが、ことごとく、村の風習や住人の生活環境に対して、現代人(当時)として苦言を呈します。さらに彼は国内の大手製糖会社の会長の娘婿で、東京から派遣されてきたという肩書だけでもかなりのエリートです。ここまでのやり取りを状況だけで判断すると、エリート現代人が地方の“未開の人々”を見下すという、公開当時である1968年を考慮してもかなり問題になりそうな場面なのですが、観ている側は不思議と不快感がありません。それは、北村和夫の名演が大きなポイントです。彼は先述した通り、エリート社員なのですが、どこかみっともなさを感じさせるどこにでもいるようなおじさんを絶妙に演じます。このため、一見問題になりそうなこの一連の場面が、クラゲ島の“時代錯誤な風習”というボケに対して、技師さんがツッコミを入れるという、ある種のコントのような滑稽な場面になり、観客は不快感なく観ることができるのです。

こういった一見シリアスになりそうな場面を滑稽に見せる手法は重喜劇と呼ばれており、今村作品は『豚と軍艦』から一貫して重喜劇がベースになっています。独特の引いたカメラワークやとぼけたような音楽、挿入される昆虫や動物のショット、そして演者の絶妙な演技によって成り立っている今村監督にしかできない独特な演出です。

この映画で差別を受けていた主人公は結局島民たちに除け者にされたまま惨殺され、その家族たちも皆悲惨な末路を辿ります。しかし、巧みな重喜劇演出によって胸糞悪さが軽減され、この映画を一義的な解釈に向かわせない重厚な作りにさせているのです。

話をクラゲ島に戻します。先述した通りクラゲ島は現代文明と隔絶された地であり、工事は全く進みません。砂糖工場にはきれいな水が要ります。クラゲ島にも水源はあるのですが、立地がいい水源は“神様のための泉”、他は辺鄙な場所にあります。また、工事のため木を切り倒そうとしてもそれは“神様が宿る木々”です。挙句の果てには技師さんも“神様の使い”として島に懐柔されてしまいます。主人公根吉やその息子亀太郎はそういった風習を「迷信だ。」と言います。それどころか村の若者の大多数は「あんなもの迷信だ。」と言い、真面目に信じている人を馬鹿にまでしています。にもかかわらず、根吉も亀太郎も他の若者も村の掟を破ることができません。

これは、クラゲ島という狭く閉塞的なコミュニティであることが要因です。人々はクラゲ島の中で一生暮らさなければなりません。その為、何か行動を起こしたとして、何年か後もしくは何十年か後に何らかの厄災(それがその行動と関係あろうとなかろうと)が村に訪れた際、村の中での立場がなくなってしまうのです。こういった閉塞的なコミュニティでは目立たないことが一番なのです。

また、クラゲ島は教育が行き届いておらず、島の子供たちは神話を聞かされているだけです。小さいころから神話以外の教育をほとんど受けていないため、洗脳状態になっており、その刷り込みが大人になってからも消えてないのです。

村中がこんな調子では村が貧困にあえいでいくのも当然です。せっかくの水源は“神様の泉”で、その水で育てた作物は“神様の作物”だから食べてはいけない。そして住人たちのストレスは最下層すなわち主人公一家に押し付けられる。何らかのコミュニティに属していた人なら誰しもそういった経験をしたことがあるのではないでしょうか?「このままではコミュニティ全体に良くないことが起こるのは明らかだ。でもそれを言い出すのは面倒だし、そのつけが自分に回るのが嫌だから結果として放置する。面倒事やストレスはそのコミュニティの誰かが被ればいい。」その延長として起こるのがいじめであり、ブラック企業であり、様々な社会問題なのです。

こういったクラゲ島の軋轢に揉まれ、技師さんは映画の中盤でこう言います。「スカッと爽やか、コカ・コーラ!」この台詞とともにこの映画は休憩に入ります。唐突に挿入される広告に思えて笑いを誘うこのシーンですが、コカ・コーラはこの映画においてかなり重要な意味を持ちます。映画の終盤でもコカ・コーラは登場します。製糖会社がクラゲ島の観光資源にも目を付け、空港を建設し、鉄道を敷設して“文明化”した後、空港の中にでかでかとコカ・コーラの看板が立っています。コカ・コーラはアメリカ的な資本主義を象徴するような企業であり、技師さんの住む東京すなわち現代的な文明生活を象徴するものです。クラゲ島の軋轢に揉まれた技師さんは東京に帰りたくなり、コカ・コーラが恋しくなります。(都会の喧騒が嫌になって故郷の田舎の味が恋しくなるという話はよく聞きますが、逆はあまり聞いたことありませんよね?そこも笑えます。)コカ・コーラは技師さんや現代文明を生きる(私たちも含めた)観客にとっての“神様”なのです。終盤のクラゲ島の島民たちはコカ・コーラを売り、資本主義化して島の神々を捨て、木々を切り倒し、“神様の泉”を工場用水にします。クラゲ島の神々はコカ・コーラという新しい神に殺されたのです。これが広告だったとして、広告は購買意欲のために観客にインパクトを残さねばなりません。(そのインパクトを逆手にとって映画内の重要なキーアイテムにするのですからこの映画は全くと言っていいほど非の打ちどころのない完璧な作品です!!!!!!)

さて、製糖会社という外圧によって神々を簡単に捨てたクラゲ島ですが、その姿にはどこか既視感があります。外圧によって信仰を簡単に捨ててきた島国、日本です。“サムライ”という神様は黒船襲来を契機に捨てられ、“天皇”という神様は敗戦と同時に廃れていきました。そしてこのような姿勢は国際情勢との折り合いのつけやすさといった日本社会の強みでもありますが、外圧がないと問題が変わらないという弱みでもあります。つまり、クラゲ島を見下し、その風習を笑っていた観客もまた、大きなクラゲ島の住人なのです。そして、まるで主人公一家の死に観客も加担していたかのような罪悪感を抱かせてこの映画は締めくくられます。

今村昌平監督は「人間の本質は田舎にある。」という趣旨の発言をしています。そして『豚と軍艦』から始まり『にっぽん昆虫記』、『赤い殺意』、『「エロ事師たち」より人類学入門』、『人間蒸発』はいずれも田舎や家族制度といった人間の根源的なコミュニティに何かしら苦しめられ、呪縛のように縛り付けられていた主人公が必死にもがき、そこから解放されていく映画です。この『神々の深き欲望』という映画は、人間という生物が互いを守り種の繁栄させるために形成し、時には人間たちを圧迫して傷つけもするコミュニティという存在。その根底にあるものは何なのか?そしてそれを形成する日本人とは、人間とは何なのかを考え、追求してきた60年代今村作品の到達点だと言えます。

このように、『神々の深き欲望』という映画はクラゲ島という田舎社会を通して人間の本質や人間社会の残酷さ・愚かさを感じさせ、さらには観た後も深く考えさせられ、何度も観たくなる重厚な映画なのです。

 

今回も長くなってしまったので記事はここで終わりにします。次回、『復讐するは我にあり』と『ゼアウィルビーブラッド』についての記事を書きます。『神々の深き欲望』を踏まえてどう考えられるのか、なぜ勝手に三部作にしているのかついて紹介し、長くなってしまったこのブログを締めくくる予定です。bk1oz7ahea5kwwrpmc5wmeyezmwdhm