ビデオの中のあなたと、いつまでも踊っている
––––『aftersun』についての覚書
かないりょうすけ
去る3月に大学を卒業した。専攻した映画研究では卒論で完全に打ちのめされ、批評を離れて映画作家としてのさらなる研鑽を積むべく札幌を離れて東京に移った私に、久々に映画について書く機会が舞い込んだ。思ってもみない出来事に浮き足立ち、題材は何にしようか、先々月に足繁く通ったシャンタル・アケルマン映画祭のことでも書いてみようか、などと逡巡していた5月末のある日、ものすごい映画に出会ってしまった。
5月26日に本邦公開となった映画『aftersun』である。
前評判も良く、ほどよい期待とともに映画館の椅子に腰掛けた私を、この映画は震えるような衝撃と感動でもって迎えてくれた。映画が進むにつれて私は泣きたいような叫び出したくなるような衝動に駆られ、服の裾を掴みながらスクリーンに釘付けとなり、エンドロールが流れ始めた時には感情の遣り場に困り果てて頭を抱えてしまった。憧憬と喪失と昂揚感と愛おしさが混ざり合ったような夢のような心地で劇場を後にし、とんでもないものを見てしまったのだと愕然とするほどであった。
映画は父と娘の、トルコでのひと夏のヴァカンスを題材としている。冒頭、ホテルの一室で娘が父を撮影している荒いビデオカメラの映像が映し出され、ほどなくして場面は時制のはっきりしないレイヴ・パーティの断片的な映像へと変わる。ストロボのように明滅を繰り返す画面。パーティには大人の女性、おそらく現在の成長した娘ソフィと、踊っている父の姿がある。映画はやがて父とのヴァカンスの日々を描写し始める。それは回想であり、成長したソフィの記憶なのだということを観客は知る。
ふたりの海辺のヴァカンスの日々は、通常の映画に見られるような透明なカメラと、父が持参したビデオカメラによる映像の両者が入り混じる形で描かれる。時折回想は寸断され、レイヴの場面が差し挟まれることで、ソフィとともに観客はいっとき記憶の再生から醒め、またすぐに回想へ戻っていく。
つい目を惹くのはビデオカメラの荒いルックの映像だが、そちらについてはあとで触れるとしよう。通常の映画叙述としてのカットもまた素晴らしく構成されている。ひとつひとつの画角、例えばクロース・アップでは通常必要な人物のサイズよりもう一歩寄って、ロング・ショットではもう一歩引いて撮られている印象がある。それらは人物や事物といった画面内のモティーフを類的なものとしてみなす記号性から引き剥がし、そのもの自体の質感や手触りを刻印する役割を果たしているようだ。フレーム内の構成において、モティーフを中心に据えてほかを背景とするような撮り方でなく、全体のコンポジションを優先して配置し、そこにたまたまモティーフが映り込んだかのようなさりげなさを演出しているのもそれに寄与している(父がホテルの一室でひとり太極拳をしている場面での人物配置などはこれにあたる)。カメラの運動も秀逸だ。ごくゆっくりとしたパンやティルト、ドリー移動と浅いフォーカスの変化によって瞑想的な耽美性を現出させ、客観的な事実の羅列としての視線でなく内心の記憶を辿るソフィの主観的なまなざしを観客に共有させている。こうした撮影面の工夫と前述した場面の交替によって、モノローグや説明的な要素を排していてもなお観客は眼前の出来事が過去のものであることを体感によって了解できる。映像のもつ現在性とこの過去の感覚が共存する映像は、記憶と呼ぶにふさわしい質感を備えている。
過去から現在にわたる、娘の父との関係性の豊かさと複雑さが映画の主題をなしている。劇中ではふたりの会話から窺い知れる範囲以上のことについて説明されることは一切なく、観客はふたりのやりとりから状況を補完して理解していく。ソフィの父と母は離婚しているようだ。今、娘は母と住んでいて、父とは普段会っていない。父はおそらく金銭的に余裕がないようだ。映画が進むにつれて、父がどうやら内心に何かを抱えているらしいことも推察されるようになってくる。父がホテルでひとり泣いている。夜の街を駆け回る。故郷には帰らないと漏らす。11歳の誕生日の思い出を娘に問われて、ビデオカメラを止めさせてから暗い声色でぽつぽつと語る。記憶の中では決定的なことはなにも語られないが、それらの場面がもたらす静かな不穏さと、現在のソフィがこの夏を、おそらくは大切な記憶として思い返しているということが観客をある認識へと連れていく。娘は、このあと父には一度も会っていないのではないか。これが二人の最後の夏なのではなかろうか。そのことを父はわかっていたのではないか。もしかすると、父はすでに––––。
ソフィの目線をなぞり、映画が描くヴァカンスの日々を記憶として追いかける中で、親子の微笑ましいやりとりに隠れた複雑な心理が浮かび上がってくる。まだ11歳のソフィは無邪気に普段会えない父との日々を楽しんでいる。その姿を大人になったソフィとともに観客は懐かしく見つめる。父は娘の言動のひとつひとつを柔らかく受け止め、笑いかけ、時にふざけ合いながら、子を気に掛ける優しい親として振る舞っている。子供のソフィに気づかない彼の心の機微が、大人になったソフィと観客には伝わってくる。父も完璧な人間ではなかったということ。普段会えない娘と会うことの嬉しさと同時に、彼女の日常に自分がいないさみしさ、夏が終われば自分のもとからまた離れていくつらさもあったであろうこと。どんどん成長する娘に伝えられることの少なさ、それでも父として何かを残したいという焦り、当時のソフィには知り得なかった感情が父の表情や背中から痛烈に感じられる。親子は近いようでいて、親子であるがゆえに遠く隔たってもいる。
こうしたことに対して明示的な答え合わせはなく、ただ日々の連続を描く映像から観客が想像を働かせるのみだ。だからこそふたりの関係性は汲み尽くせない豊かさをもっている。わたしたちの人生で、記憶のなかで白黒がつくことなどいくらもない。むしろ曖昧で答えのない記憶だからこそ、わたしたちはそれを憶えているのかもしれない。そして記憶に織り込まれた謎の汲み尽くせなさゆえに、わたしたちはそこへ何度も立ち還り、ついつい考えをめぐらせてしまう。ソフィはそうして何度もこの記憶をたどり、ビデオを何度も再生し、父の姿にその謎の答えをみようとしているのだろう。あのとき父は、何を考えていたのだろうか?
そう、この夏はビデオカメラに記録されているのだ。ソフィが父を撮り、父が娘を撮った映像の中にヴァカンスの日々は残っている。大人になったソフィは映像を見返している。父もまた、トルコのホテルで映像を見ていた。ビデオカメラの映像は前述のクロース・アップが多く使用され、断片的にものを映している。そこには映ったものと同時に、映らなかったものもある(観客はそれを見ている)。フレームの外に追いやられてしまったもの、記憶からこぼれたもの、汲み尽くせなかったもの。それは自然と映画全体へと波及してくる。観客が目にするトルコでのヴァカンスの記憶もまたカメラという装置によって撮影されているがゆえに、そこに映っているものがすべてではないという認識があらわれる。記憶が取りこぼしたものを観客は探し始める。あのときわからなかったことを追い求めるソフィのまなざしと、フレームの外のできごとへ意識を向ける観客のまなざしが重なり合う。観客はソフィの記憶の中へ釘付けにされる。
ビデオカメラが記録しているものはもうひとつある。それは撮っているその人自身だ。ソフィがベランダで「ヘンな動き」をする父を撮った映像には、ソフィのまなざしが色濃く残されている。父がプールで遊ぶ娘を撮るとき、その映像にもっとも強く残るのは父のまなざしである。大人になったソフィは父が幼い自分を撮った映像を見返しながら、そこに父の姿を見ていたのだろう。じっとカメラを構えて自分を映し続ける父と、大人になった娘がビデオを通して対面する。あのラストシーンには、映像によって時間を超えて記憶と向き合うことができるという希望があふれている。それが映画にできるすべてでなくてなんだろうか。
ラストシーンでソフィの心象イメージの中の父はビデオカメラを降ろすとゆっくりと扉の向こうへ帰っていく。扉の向こうにはレイヴのフラッシュが一瞬光る。あのパーティはソフィの記憶のなかで作り上げられた、父とのつながりの空間なのだろう。トルコでの最後の日、父は嫌がるソフィをよそに踊り始める。ソフィは父に手を取られて一緒に踊り出し、父と抱き合った。あの瞬間に父はソフィのなかで永遠になったのだろう。音楽とダンスとハグの感触が変質して記憶のなかで固着したのがレイヴで、その手触りに時間性はなく、あの空間で父と娘は永遠に踊り続けている。ソフィはいつでもそこに還ってきて、記憶のなかでほんの束の間、父に触れることができる。そうしてまた現在に戻ってくることができる。それが人生のすべてではなかろうか。そうしてわたしたちは生きていくのではないだろうか?
トルコのホテルで父は娘の映像を見返していた。大人になったソフィのまなざしは、あの日の父のまなざしと繋がっている。ふたりはあの夏のビデオカメラを通して、ずっと見つめ合っているのだ。そのまなざしの交換がもたらすあたたかさは、成長したソフィにいつまでも残るだろう。日焼け後のクリームのように、痛みからそっと守るように。