ひとりぼっちの君へ《アララの呪文の効力》(ツシマ)

「ひとりじゃない」とはどういう状況なのだろうと考える。辞書には「ひとり」の項目にこのように書かれている。
「自分だけで、仲間・相手がいないさま。」
つまり「ひとりじゃない」とは「自分だけではなく、仲間・相手がいる」状況ということになる。
「ひとりじゃないから 私が君を守るから あなたの笑う顔が見たいと思うから」
これはAIの「Story」という歌の歌詞である。なるほど「私」と「君」「あなた」は仲間であると推測できる。笑顔を見るためにはどんな覚悟も辞さないような熱い友情が感じられる。
ただ、本当にひとりぼっちの人間はこの歌を聞いても救われた気持ちにはならないだろう。「俺の涙の理由がお前なんかにわかるもんか」「どうせ助けなんかに来るものか」
そんなひとりぼっちをこじらせた人に聞いてほしいのが「アララの呪文」という曲だ。歌詞はさくらももこが担当している。
「ひとりで泣いてる時も思い出してね あなたの笑顔がきっとすぐに駆けてくる」
この歌詞には他者がいない。泣くのは自分一人の問題として捉えている。ひとりで泣いていても、いつかきっと笑う日が来る。そのことだけは忘れないで欲しい。渾身のメッセージだと思う。
歌詞はこの後「なんとなく可笑しいね」と続いている。さくらももこほど、人間を知り尽くした人はそういまい。

パンク小説に思うこと(ツシマ)

ゴーゴリ「狂人日記」を読んだ感想を書こうと思う。
あらすじとしては、下級官僚の主人公アクセンチィ・イワーノウ゛ィチが上司の娘に恋をしてストーカーまがいのことをするも上手くいかず、精神を病んで自らをスペイン国王だと思い込み、精神病院に収容される、というものだ。
特筆すべきはイワーノウ゛ィチの自分の正当性を信じて疑わないパワーだ。世の中を呪い、その癖自分の愛するものには賛辞を惜しまない。「あの娘の声はカナリアだ!」とか、お前は中学生か!と言いたくなる。
ここで思い出すのが「夫婦茶碗」に代表される、初期の町田康作品の主人公達だ。
彼らも自分の主張を絶対的に正しいと信じ込み、破滅の道を歩んでゆく。彼らとイワーノウ゛ィチとの共通項とは何なのか。
それは人間としての器の小ささだと思う。
例えばクレーマーやモンスターペアレンツと呼ばれる人達がよくニュースで話題になっている。それを観て視聴者は大体同じような感想を持つ。「そんなことで怒らんでも」。しかし、本人にしてみればそれこそ怒りと恐怖で生活に支障をきたすくらいの大問題なのだ。
イワーノウ゛ィチや町田康の小説の主人公は、怒りや恐怖を自らの矮小な器に溜め込んで、それらが溢れかえった人達なのではないだろうか。彼らの怒りや恐怖は、はっきりいって共感できないし、彼らの人生は決して立派なものではない。だが、何なのだろうこの生命感は。やっぱり彼らの生き様はパンクだといいたいのである。

病床より弾丸を込めて(ツシマ)

先程から咳が止まりません。血を吐く勢いですが頑張ります。
はじめまして。北大映画研究会6年目のツシマです。
このブログで何を書こうかと悩んでいるのですが、とりあえず自分の好きなもの、映画・小説・漫画・音楽なんかのことを中心に伝えていけたらと思っています。拙い言葉になると思いますが、なるべく毎日更新するつもりです。
皆さんに愛されるような文章を書くよう心掛ける所存ですので、どうか応援よろしくお願いします。