パンク小説に思うこと(ツシマ)

ゴーゴリ「狂人日記」を読んだ感想を書こうと思う。
あらすじとしては、下級官僚の主人公アクセンチィ・イワーノウ゛ィチが上司の娘に恋をしてストーカーまがいのことをするも上手くいかず、精神を病んで自らをスペイン国王だと思い込み、精神病院に収容される、というものだ。
特筆すべきはイワーノウ゛ィチの自分の正当性を信じて疑わないパワーだ。世の中を呪い、その癖自分の愛するものには賛辞を惜しまない。「あの娘の声はカナリアだ!」とか、お前は中学生か!と言いたくなる。
ここで思い出すのが「夫婦茶碗」に代表される、初期の町田康作品の主人公達だ。
彼らも自分の主張を絶対的に正しいと信じ込み、破滅の道を歩んでゆく。彼らとイワーノウ゛ィチとの共通項とは何なのか。
それは人間としての器の小ささだと思う。
例えばクレーマーやモンスターペアレンツと呼ばれる人達がよくニュースで話題になっている。それを観て視聴者は大体同じような感想を持つ。「そんなことで怒らんでも」。しかし、本人にしてみればそれこそ怒りと恐怖で生活に支障をきたすくらいの大問題なのだ。
イワーノウ゛ィチや町田康の小説の主人公は、怒りや恐怖を自らの矮小な器に溜め込んで、それらが溢れかえった人達なのではないだろうか。彼らの怒りや恐怖は、はっきりいって共感できないし、彼らの人生は決して立派なものではない。だが、何なのだろうこの生命感は。やっぱり彼らの生き様はパンクだといいたいのである。

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