文学部四年で映研も四年目の古川と申します。今回はブログリレーということで、M・ナイト・シャマラン監督の、『レディ・イン・ザ・ウォーター』について、メタ的な視点から評価してみようと思います。少し長くなってしまいますが、お付き合い下さい。
M・ナイト・シャマラン監督は、『シックス・センス』や『アンブレイカブル』のような高く評価される作品で有名な一方、『エアベンダー』や『アフター・アース』のような、鳴かず飛ばずの映画を作ってしまう監督でもある。今回はその中でもあまり評価されていない方の作品、『レディ・イン・ザ・ウォーター』について、一度の視聴による曖昧な理解に基づくものだが、敢えて評価してみたいと思う。
そもそも『レディ・イン・ザ・ウォーター』は、大手映画サイトで軒並み低評価(映画.comで2.4/5、Filmarksで2.9/5、IMDbで5.5/10・Metascore36 2022/5/7時点)という、なんとも微妙な映画である。確かに、脚本を追う見方をすればあまり面白くない映画かもしれないが、その実、レベルの高いことをやっている。この映画を評価するには、映画というメディアそれ自体への理解が少し必要なように思うので、まずはそれについて説明しておこう。
映画に限らず、小説や劇といった芸術作品は、「私が見て、あなたが見られる」というような、上位者である観客と下位者である作品の上下関係が成立しており、そもそもメタ的である。そのメタ性は我々観客が一々「これは映画だから云々」ということを考えないように、普段は覆い隠されている。例えば『ジュラシック・パーク』で恐竜が登場人物を襲う一方カメラマンはスルーすることに違和感が無いのは、それが現実をそのまま映したドキュメンタリー的作品ではないことを観客が当たり前に分かっているからである。観客は、映画のメタ性が隠されていることを知りつつも、そのことをはっきりと認識せずに映画を楽しむ事ができる。一方で、そのメタ性を顕在化させることを厭わない作品もある。そのアプローチは多様にあり、『デッドプール』のように主人公が観客に語りかけることで映画内現実から映画外現実への干渉を目指すものや、『大人は判ってくれない』の最後のように主人公がカメラを見据えることで「見る私と見られるあなた」という関係を倒錯させるもの等が挙げられる。
以上を踏まえた上で、『レディ・イン・ザ・ウォーター』ではどのようなことが行われているだろうか。この映画はそもそも、ヒープという男性の管理するマンションに人魚が現れ、ヒープがそれを保護するところからはじまる。この出来事とおとぎ話の関連に気がついたヒープは、おとぎ話に従って行動する事で映画を駆動させる主人公の役割を果たす。主人公がおとぎ話に従って行動するということは、脚本はおとぎ話そのままになるわけで、大人にとってその脚本を楽しむ事は難しいかもしれない。ここから一般的評価が芳しくないことは十分理解できる。そのため、これから説明することは脚本的理解による低評価を贖う事はできないのだが、しかしやはりこの映画を低評価のみに埋もれされておくには惜しいように思われてならず、別の側面からの評価を試みたい。
映画がメタ的である事が普段は覆い隠されているというのは先程述べたが、この映画は冒頭からメタ性が顕にされる。主人公のヒープという名前が発話されるとき同時に女性のお尻が映されるのだが、これはheepとhipの類似による言葉遊びである。この事は、カメラが主観的視点である事を明示し、見る我々の上位性を明らかにする(注:何度も言うが、映画のカメラはそもそも主観的で、映画はそもそもメタ的である。ただその事を意識するかどうかは監督の匙加減と、観客の映画的経験や年齢、視聴態度などにかかっている。ここでは、そのメタ性を観客層に関係なく気づかせるようにカメラが配置されることを述べている。)。あるいは映画終盤において、怪物に相対した人物が自身を映画の登場人物として仮構し、
「ホラー映画であれば(私のような)嫌われ者は殺されてしまうが、家族映画であればそのような人物は助かって心を入れ替える。これは多分ホラー映画ではないから、ここで逃げれば私はタッチの差で助かるというわけだ。」
とカメラを直視しながら発言するも結局殺されるというシーンは、メタ的視点から非メタ的視点への移行を、あるいはストーリーに具体的な考察を加える者がストーリーに取り込まれてしまうことを表している。
では、『レディ・イン・ザ・ウォーター』においてメタ性が顕在化したり、その移行が描写されたりするのはどのような意味を持つのだろうか。それは、この映画が映画内寓話を映画内現実として結実させることによって成立する、根源的にメタ性を内包した映画だからである。『レディ・イン・ザ・ウォーター』が特殊なのは、普通の映画が「観客→映画内現実」という一本の関係性で成り立ち、映画内現実が観客の現実に干渉することはないのに対し、「観客→映画内現実→映画内寓話」という二重の関係性に則っており、その映画内寓話がメタ的な壁を突破して映画内現実として観客に供されるというプロセスを踏むことで、帰納的に映画内現実が観客の現実にまで遡行するような錯覚を与えるところにある。このことは、『レディ・イン・ザ・ウォーター』の根幹に位置する主題であり、観客にこれを認識してもらわないとこの映画の面白さはいまいち伝わらない。だから、heepと言いながらhipが映されたり、登場人物が不自然なまでにメタ的な発言をしたりすることで、観客の映画に対する上位性と、なおかつそれが移行しうることを理解してもらおうとしているのである。
結果としての一般的評価を見る限り、このシャマランの試みはうまくいかなかった。しかしその破られるメタ性という表現は、恐竜に襲われることはないと安心しきっている観客にぐっと距離を詰める斬新なもので、脚本がつまらないことだけで切り捨てられるべき作品ではないはずである。
個人的に好きなブライス・ダラス・ハワードが出演していることから興味を持った作品ですが、あまりの評価の低さに納得がいかず、ここまで長々と書いてみました。願わくば、読んだ人の映画理解の一助になれば幸いです。
北大映画研究会には、こんな感じでジリジリと映画について考える部員もいるし、映画を撮りたい部員もいるし、あるいは映画はそんなに好きじゃなくてもアニメや音楽等他のサブカルが好きな部員もいます。気になった方は、ぜひ例会や撮影会に顔を出してみてください。ここまで読んでくださってありがとうございました。