映画「ヒミズ」は優秀な失敗作(ネタばれ注意)

映画ヒミズは優秀な失敗作といいたい。僕はあくまで失敗作であると考える。
まず本作が311という出来事を取り入れたことはやはり重要で、この点については賞賛の声をおしむべきではないだろう。では、他でもない『ヒミズ』にそれを取り入れたことはどのように考えればよいだろうか。以下少し原作『ヒミズ』に関して考えたい。
原作『ヒミズ』は2000年代に突入する社会心象を的確に表現した名作であったと思われる。90年代においてのこのような作品は岡崎京子の『リバーズエッジ』だったり、『エヴァンゲリオン』であったろう。岡崎京子は日々の生活を「平坦な戦場」とSF作家ウィリアムギブソンの詩を引用して、表現した。いつ来るともしれない「死」、それによって曖昧になってしまう「生」。そのような空虚をこの作品は残酷なまでに読者に自覚させたし、それはその時代の人々の共感を呼ぶものであったと思われる。また、一方でエヴァはそのようなけだるさの中での自意識の拡大を、おそるべき迫力で描いた。その衝撃は今においても続いているといえる。そのようなある意味での静寂と空騒ぎの後に、『ヒミズ』は生まれた。この作品は2000年代に入ってからの変化、すなわち自意識の限界と日常の複雑さを的確に描いて見せた。自意識の限界は、住田が生き方をかえることが出来ずに死んでしまったことに表れている。また、住田の周りの環境は自意識に絡め取られることなく、かといって平坦に進んでいくほど簡単に受け入れることのできないものだった。このような意味でヒミズは、リバーズエッジとエヴァの次に来る作品だったといえる。また、このような視点から見れば、個人的には残念至極だが、ヒミズは現代に価値あるメッセージを与えることは出来ない。
以上のことを前提として上で映画ヒミズを考えたい。映画ヒミズはこのように2000年代の代表であった作品を、現代的テーマを加えたうえで、復活させたといえる。この功績は大いに評価されてよい。しかし、その「復活」の仕方は慎重に吟味しなくてはならない。そしてここにこそ映画ヒミズが失敗してしまった理由がある。
映画ヒミズは、ヒミズが到達してしまったあらゆる限界を突き抜けて、311以後とも重なる「復活」をそのラストで打ち出して見せた。それはとても楽天的で、まさにポジティブだ。絶望的な災害があったときこそ、今までのありきたりな言葉をあえて受け入れて走り出そう。このメッセージは確かに潔く、感動的である。それと同時にこれは、とてつもなく軽薄なものでもある。ここには反省がない。ゆえに明日に踏み出す確かなバックボーンがない。
震災の後、意識のするしないにかかわらず、世界の認識は変わった。当たり前のものが一瞬のうちに消えていく瞬間を人々は目撃した。次の瞬間は何が起こるか分からない、そんな当たり前のことを人々はまざまざと知った。日常が実は断絶していることを知ってしまったのである。厳密にいえば、すべての「物語」はもう機能することができないとさえ言える。
このような事態を経験してから、今まで何度なく繰り返されてきた「ありきたりな言葉」を信じることができるだろうか。ここに問題を突き詰めるとおそらくは各人で意見が分かれていくだろう。だが、僕は信じることができない。少なくとも、映画ヒミズにそれだけのエネルギーがなかったことは断言できる。映画ヒミズのラストシーンに関して少しだけ空想してみよう。なるほど、この空想はとても意地悪いもので、ある人は怒りすら覚えるかもしれない、作品を正当に評価していないというかもしれない。しかし、先に出たような「断絶」を踏まえて考えるなら、必要であると思う。
もしヒミズのラストシーンで突如大地震が起こり、茶沢が死んでしまったら、住田はまた走りだせるだろうか。この空想はヒミズの失敗点を明らかにする。僕は思う、住田は走りだせないと。愛する人やものがなんの予告もなく奪われるという「断絶」。これを乗り越えて住田は走り出せないだろう。この映画には住田の「復活」をそこまで強固なものに描けていない。そして、震災を踏まえるのであれば、その強固さを生みだすものこそ描かねばならなかったはずである。住田は、この作品は「断絶」の後、自分がなにを頼りに生きればいいか考えてはいないだろう。住田の反省は作中描かれていない。唐突に走り出すその姿は、観客の感情的な補完があれば希望にも見えるだろう。だが、僕にはその希望はまやかしにみえた。少なくとも、それを信じて、あるかないかの次の瞬間に踏み出すことはできない。
以上がヒミズが優秀な失敗作といえる理由である。この理由は多分に個人的なものであることはいうまでもない。そのような批判も覚悟している。しかし、ある程度の正当性も持っていると自負しているので、この問題をどうか真剣に考えてほしいと思う。もう一度ヒミズが与えた「希望」を吟味してほしいと思う。

映画「ヒミズ」は優秀な失敗作(ネタばれ注意)」への1件のフィードバック

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    ※ネタバレに注意してください。
    自分は案外感動してしまったので(笑)、別の意見を持っています。
    僕は、『嘘っぱちの希望』を重々承知で、それでも敢えて走ろうとする住田君たちの姿に感動してしまいました。
    「頑張れ」「生きて!」とかいう言葉がありきたりなのは当然分かるんです。
    冒頭で担任の先生が「一人一人花を咲かせよう」「日本を復興させよう」などのうんざりするくらいポジティブな言葉をハイテンションで話すところで、もう監督の悪意が見え見えなんですよね。もう最初から、『希望』を否定してるんです。
    また、各シーンの端々に震災関連の情報が執拗に挿入されているところも注目です。園子温監督はインタビューでたびたび3.11以降の「終わりなき非日常」を強調しています。「終わりなき非日常」とは、これから永遠と続く非常事態を意味しています。今度の震災は、津波被害、原発被害が引き起こすだけでなく、あらゆる意味で日本の既存の制度が機能不全となってることを証明しました。普通に客観的に考えたら、今の日本にポジティブな将来を見出すのは難しいです。その認識は、監督も十分共有していると思います。
    このような希望を否定するようなメッセージは、ラスト近くの、住田君と茶沢さんがお互いの未来を語るシーンでMAXに達しています。住田君はささやかな幸せを夢見ますが、同時に、「どうせ、茶沢さんは・・・」と自分の夢を砕くような台詞を話します。どんなに罪を償ったとしても、人を殺してしまったことへの十字架を背負い、なおかつ社会的・経済的なハンデを追いながら生きていかなければいけないことを住田君は十分承知しています。夢を見ても、夢を信じることができない住田君の複雑な感情を示す証拠です。
    そして、ラストの音楽の使い方も注目です。ラストの音楽は『弦楽のためのアダージョ』という曲(http://www.youtube.com/watch?v=ANWqxtlLUVs)が使われています。「どこかで聴いたことあるな」と思ったら、『プラトーン』『エレファントマン』などの様々な映画で使われている曲でした。『プラトーン』ではベトナム戦争の悲惨な現実を示すために、『エレファントマン』では今まで苛められてきたエレファントマンが人々の優しさに触れ、幸福を感じながらも永遠の眠りにつくラストシーン(それが逆に悲劇的です)で使われています。『ヒミズ』でも、この決して明るいとは言い難い音楽でラストを迎えます。
    以上から、映画『ヒミズ』が単純に『希望』や『ありきたりな言葉』を信じるために、観客に信じさせるために作られたとは思えません。
    正直、ここまで『希望』を否定されたら、銃で頭を撃った方が正直楽ですよ。
    ただ、それでも住田君は死にきれなかったと思うんです。なぜなら、人の優しさを知ってしまったからです。茶沢さんやホームレスの人たち、でんでん演じるやくざ(笑)などと出会って、簡単に世の中に絶望することができなくなったのだと思います。「もしかして、こんな自分でも人の役に立てるかもしれない」「幸せもなれるかもしれない」「それでも生きてみたい」と考え、悩み、もがく話が映画『ヒミズ』のストーリーだと思うんです。
    だから、震災を踏まえたうえであるなら、むしろ、住田君の『復活』を『強固』に描いたら駄目だと自分は思います。むしろ、震災が起きたからこそ、もっと不確かで暗い未来を、想像できない不安を抱えながら、それでも生きていくことを肯定する映画であるべきだと思います。「頑張れ」「生きろ」と言う軽薄なありきたりな言葉しか見当たらなくても、希望なんて1%しか信じられないとしても、そういう言葉に、そのような希望に縋って生きてみようと思うのが人間なのではないでしょうか?
    だから、園監督の「『絶望』が『希望』に負けた」というメッセージは、僕にはとても理解できたんです。
    とはいっても、映画の出来自体は良くないと思います。「あの死刑台は何?」とかは思っちゃいますよ、やっぱり(笑)。でも、まあそういう粗が気になるよりも、何より主役二人の演技に夢中になってしまったので自分としては感動してしまいましたね。

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