法学部三年の田仲です。
恒例のブログリレーが今年も始まります。これは部員が一人一本ずつ、映画に関する記事を書いていくという企画です。慣習に則り、初回は当代の部長である私の記事から始めていこうと思います。今回は私が敬愛する監督、クロエ・ジャオについてです。
クロエ・ジャオは、二〇一五年に長編デビューを果たした、比較的若い監督です。現在の監督作品は日本未公開の「Songs My Brother Taught Me」、「ザ・ライダー」、「ノマドランド」、そして「エターナルズ」の四作品で、そのうち「ノマドランド」は金獅子賞とアカデミー作品賞を受賞しています。私は「ノマドランド」でクロエ・ジャオを知り、以来彼女のファンなのですが、今回は彼女の映画の特色と魅力について私見を述べさせていただこうと思います。
クロエ・ジャオの色というのは、彼女独自のリアリズムにあると私は考えます。これはストーリー面と映像面の二つに大別できます。まずはストーリー面についてですが、彼女の描く物語には極めて大きな特徴があります。それはキャラクターの多くが実在の人物であるというものです。「ノマドランド」を例にとると、作中にはノマド(車上生活者)としてリンダとスワンキーという二人のキャラクターが登場しますが、これはどちらもリンダ、スワンキーという実在の人物が本人役として演じています。また「ザ・ライダー」では落馬負傷したカウボーイのブレイディ・ブラックバーンというキャラクターが主人公として描かれますが、これを演じているのはブレイディ・ジャンドローという実在のカウボーイであり、作品自体がブレイディ自身のエピソードに基づいて作られています。ブレイディ・ブラックバーンの家族として登場する父と妹も、ブレイディ・ジャンドローの本当の家族です。このように、クロエ・ジャオは実在の人物をそのまま俳優として起用し、人物そのままのキャラクターとして登場させるという非常に珍しい手法を用いています。ここではこの手法を、仮に「クロエ・ジャオ方式」と呼称しますが、これは本人が本人役で出るという点でドキュメンタリーに近いものであると言えるでしょう。
しかしながら、ここで一つ注意しなければならない点があります。それは、彼女の作品にはれっきとした虚構の脚本が存在するという点です。「ノマドランド」のスワンキーは作中で死亡しますが、実在のスワンキーは死んでいません。ここがクロエ・ジャオ方式の面白い点です。クロエ・ジャオ方式がドキュメンタリーと呼べるかについては意見の分かれるところであり、私自身も明確な答えを出せているわけではありませんが、彼女がこの手法を用いる理由は、やはり徹底的にリアリズムを追求しているからだと考えます。ある対象、あるテーマを強い説得力を持って描く。そのためには、やはりリアリズム、すなわち現実味が必要です。であるならば、作中に現実をぶち込んでしまえば手っ取り早く済むわけです。「デューン 砂の惑星」の撮影をワディ・ラム砂漠で行うように、落馬負傷したカウボーイ役には落馬負傷したカウボーイを起用すればいいし、それを心配する家族の役には本人の家族を使えばいいと、そういう理屈ですね。しかし現実に頼ってばかりではテーマに最適化された筋道は作りづらいと思われます。そこで虚構の出番です。脚本と撮影と編集によって、現実という素材を配置・加工・成形し、テーマを体現した一つの作品を作り上げる。それこそがクロエ・ジャオ方式の用いる意味であると思います。私は彼女の作品を、リアルよりもリアリティがあるという風に評価しているのですが、それは現実と虚構を巧みな配合で掛け合わせることによって極度に純化されたテーマの結晶に触れることができるからだと考えます。
ではそこで描かれるテーマとは何か、ということですが、私は「ある個人の抱える痛みや喪失」、及び「それに対する向き合い方」であると解釈しています。「ザ・ライダー」は前述のとおり落馬負傷したカウボーイの物語ですが、そこでは「カウボーイなのに馬に乗ることができない」という大きな絶望が描かれています。また「ノマドランド」では、リーマンショックによって車上生活を余儀なくされたノマドたちという社会問題よりも、そのノマドとして生きる中での別れや喪失の悲しみといった個人的な問題が強く押し出されているように感じました。日本語字幕未対応のためまだ見てはいないのですが、長編一作目の「Songs My Brother Taught Me」もあらすじを読む限りそういった類の話ではないかと思われます。このように、クロエ・ジャオが描いている問題やテーマというのは個人の内面に関するものであり、それをその悩みを抱える本人が演じているため、そりゃあもうとんでもなく個人的で内省的な物語になるわけです。しかしながら、その問題というのは「夢を諦めるかどうか」や、「別れや喪失をどう受け入れるか」といった人類に普遍的なものであり、それを極限のリアリティで描き切る彼女の作品は、確かな説得力を持って我々の心を揺さぶります。私は「ノマドランド」には人生の答えが詰まっている作品だと思っていますが、その理由は以上の通りです。余談ですが、現在最新作にあたる「エターナルズ」はマーベルのアクション映画であり、クロエ・ジャオ方式はとられていません。さらには前三作にあった個人的問題と向き合うというテーマ性もないため、彼女のフィルモグラフィーの中では異質な感じがします。ぶっちゃけたことを言うと、私はこの作品を凡作だと評価しています。クロエ・ジャオ自身はアメコミ好きのようですが、どうもエンタメ路線では成功しなかったようです。
さて、次に映像面でのリアリティについて述べていこうと思います。といっても私はそこまで映像関係に明るくはないので専門的な解説ができるわけではありませんが、そこについてはご容赦ください。クロエ・ジャオの映像の特徴は、圧倒的な風景描写とアメリカらしさの二点であると考えます。まず風景描写についてですが、これに関しては見た方が早いとしか言えません。「ノマドランド」を見たことのある方は分かるかと思いますが、クロエ・ジャオ作品にはとにかく風景がよく出ます。多くは自然のど真ん中で、マジックアワーの感傷的な空が雄大に映し出されていて、さらにやたらとアメリカ西部です。ちょっと風景入れすぎなところはあるのですが、毎度毎度息を呑むような美しいショットになっているため飽きることはまずないです。動画的なショットの上手さかと言われると微妙ですが、少なくとも写真家の才能が抜群なのは間違いありません。
続いてはアメリカらしさについてですが、こちらの方が本題です。クロエ・ジャオの映像に、私は恐ろしいほどにアメリカらしさを感じます。アメリカらしさを煮詰めて結晶化させたものをぎゅっと固めておにぎりにしたような、そんな映像です。アメリカという国は広いですから、一概にアメリカらしさといっても色々あるわけですが、彼女の映像にはアメリカという国に普遍的な特徴がこれでもかというほど詰まっているように感じます。それは例えば西部の荒野やだだっ広い駐車場だったり、巨大なアマゾン配送センターや何の変哲もないスーパーだったりと様々ですが、フィルムの至る所から形容しがたいアメリカらしさを感じるのです。思うに、クロエ・ジャオはそうしたアメリカという国独特の空気感に対する嗅覚が非常に鋭敏なのでしょう。というのも、彼女は十五歳までを北京で過ごした紛れもない中国人であり、アメリカの文化に焦がれて国を出た、いわばアメリカかぶれなのです。よく外国人の方が日本人より日本らしさを理解している、という表現が使われますが、これも同じことなのでしょう。対象の価値や特徴は異なる対象との比較によって見えてくるものです。クロエ・ジャオについても、アメリカという国の外に立った視点を持っていたことで、下手なアメリカ人が撮るよりもいっそうアメリカらしさの詰まった映像を作れたのではないかと思われます。
かのポン・ジュノ監督は二〇二〇年代に注目すべき監督の一人としてクロエ・ジャオを挙げています。これは「ノマドランド」が公開される前の発言であり、実際その後アカデミー作品賞と金獅子賞を受賞したわけですから、その慧眼には驚かされます。また「ノマドランド」の主演であるフランシス・マクドーマンドは「ザ・ライダー」を見てクロエ・ジャオを監督に起用することを決めたようです。ポン・ジュノにしろマクドーマンドにしろ、やはりクロエ・ジャオ方式の持つリアリズムに早くから才能と価値を見出していたわけですね。最新作の「エターナルズ」は残念ながら失敗作と言える出来になってしまいましたが、彼女のキャリアはまだ始まったばかりですから、次回作が楽しみな監督であることに変わりはありません。この記事を読んでクロエ・ジャオに興味を持っていただけた方は、どうぞ「ノマドランド」から鑑賞することをお勧めします。北大映研の部室でも見ることができますので、どうぞお気軽にお立ち寄りください。ここまで長々と付き合っていただきありがとうございました。次の記事も是非お楽しみください。