こんにちは、北大映画研究会副部長、文学部三年の根岸建人です。
ブログを見ていただきありがとうございます。
今日から、不定期ではありますが映研恒例の「ブログリレー」をやっていきたいと思います。部員の人たちが、映画を1人一本ずつ紹介していくという試みです。
初回は、僕が最近見た『ラストエンペラー』という映画について書いていきたいと思います。
・『ラストエンペラー』の概要
『ラストエンペラー』は1988年にベルナルド・ベルトルッチ監督によって作られた映画です。
題材となるのは、弱冠歳で即位した中国清王朝最後の皇帝、愛新覚羅溥儀(あいしんかぐらふぎ)の一生。幼くして祀り上げられ、第二次世界大戦の中で国内外の激動に巻き込まれた溥儀の生き様が、ベルトルッチ監督の手によって一つの軸を持って描き出されていきます。
劇奏を担当するのは、最近亡くなられた坂本龍一氏。カメラが中国の歴史ある風景を写し取る時、バックに流れる荘厳な音楽が見る人の情緒をかき立てます。
・「かわいそうな」溥儀のイメージは本当か?
僕は、この映画を「悲しい映画なのだろう」と想定して見始めました。
「きっと、溥儀はこの映画において、歴史の都合によって皇帝という生き方しかできなかった、悲劇の主人公として描かれるのだろう…」
僕は初め、そう考えていました。
時代に揉まれ、それ故に権威として振る舞わねばならず、崩壊し、大日本帝国の傀儡となる自国・中国を眺める事しかできない「かわいそうな人物」、溥儀。
高校の時、歴史の教科書を読むことによって培われたそういったイメージが、『ラストエンペラー』を見る前の僕にはありました。
しかし、そのイメージは映画の中で時代が進んでいくにつれて、鮮やかに塗り替えられえていくこととなりました。
・『ラストエンペラー』で描かれる溥儀、その成長
物語は、溥儀が2歳のころ、戴冠の儀式を行う(行わされる)シーンから始まります。自分が皇帝になったことを理解せず、城内を気の向くままに歩き回る溥儀を配下がたしなめるシーンには、国の長が変わった瞬間とはとても思えない、異様な雰囲気がただよっています。
そこから、溥儀の成長をカメラは追っていくこととなります。
少年になり、兄弟と無邪気に遊ぶ溥儀。
思春期を経て、自らの地位に疑問を持つ溥儀。
一人の青年として、「国」を背負って立たなければならなくなった溥儀。
それぞれの姿が、ゆっくりと、刻銘に映し出されていきます。溥儀は、自身の実存が「中国王朝の皇帝である」ということと、分かちがたく結びついてることを、だんだんと意識していきます。しかし、溥儀が自身の存在を意識していく姿には、僕の想像とは違った溥儀の姿がありました。
繰り返しますが、僕ははじめ溥儀が「傾国の皇帝」「歴史の被害者」といった、極端なマイナスイメージを持った人物として描かれることを想像していました。
しかし、『ラストエンペラー』の溥儀は違う。溥儀は確かに、自身が皇帝であるということについて皮肉めいた発言をしたり、なぜこのような権威を自分が持たなければならないのかという疑問を他の人物にぶつけたりします。
しかしそれは、僕がイメージをしたような強いマイナスイメージによってとらえられるものではありませんでした。
作中、たしかに溥儀は皇帝である自身の存在を疑問に思い、時には否定します。
しかし、溥儀は皇帝であるということを絶対に「下りない」。
そこには、肩書とは違った、生きる指針としての「皇帝」としての誇り、あるいは皇帝であることしかできないというある種の諦念、その両端がないまぜとなった微妙な感情を見て取ることができます。
必ずしも、『ラストエンペラー』において、溥儀は悲劇の人物として描かれていないのです。
・虚しさを伝播させる溥儀
作中で物語が進み、映画も佳境に差し掛かると、時代は第二次世界大戦に進んでいきます。溥儀の皇帝を「下りない」態度はますます強くなっていき、ここにおいて、「ラストエンペラー」としての溥儀の姿がだんだんと醸成されていくこととなります。
溥儀の屹然とした態度は、もはや終盤になってくると異様です。溥儀の姿はもはや、一人の人間とは違った描き方をされています。
起こった出来事に対して淡々と、自らが皇帝として列強から期待される行動を成していく。
溥儀の心境や内面が分かりやすく示されたり、誰かに深く吐露されることは、終盤ほとんどなくなっていきます。
葛藤する、個人的な存在としての溥儀は消えていき、代わりに皇帝として存在する別の溥儀が台頭していきます。
溥儀は冷静です。内乱で、共和国軍が溥儀を連行したときも、関東軍の勅旨を通す時も、妻に逃げられた時も。時代の、事件の中心にいながらも、溥儀は冷静な態度を崩しません。
むしろ、溥儀を取り巻く人々の方が、喜びやいきどおり、悲しみを表出します。
溥儀を取り巻く人物は、自身が持つ役割の大きさに耐えかねて歴史の舞台から逃げ出すか、フェードアウトしていきます。溥儀の元から人が消えていく瞬間、その人たちは感情を吐き出していきます。
皇后、溥儀の教師、満州国群、思想統制を受けていた人物の心情が、劇中かわるがわる吐露されていきます。それはまるで、皇帝として生きるために溥儀の人生から振り払われていった感情が、溥儀の周りの人々によって媒介されているかのようです。
「日本の天皇と溥儀(満州国の皇帝)は対等であり、満州国は決して日本の植民地ではない」という主張を、溥儀が日本の要人に向けて行うシーンがあります。
溥儀はここで権威が通じないということを理解したうえで、皇帝の権威を見せつける、形式的な宣言を行わなければなりません。当然、日本の要人は聞く耳を持たず、溥儀の声は宙に消えていきます。
「溥儀はこうしたつらさを、一生その身に引き受け続けることを自分に強いているのか…」
そのシーンの虚しさ、哀しさは僕の心に強く残りました。
・最後まで皇帝を降りなかった溥儀
終盤、「最後の皇帝が住んでいた場所」として観光地化された城に訪れる溥儀。
溥儀はそこで、城の守衛の子どもに向かって、自身が皇帝であったことをなんのわだかまりもなく伝えます。
そこに迷いはありません。
ただ、自分は皇帝であるという事実を受け入れ、生きた人間として、溥儀はそこにいました。
・まとめ
以上、『ラストエンペラー』という映画について書いていきました。
映画の物語が進むにつれて、溥儀のイメージが更新されていく感覚がとても面白い映画でした。坂本龍一のメインテーマもクセになります。ぜひ見てみてください。
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